藤岡琢也
| ふじおか たくや 藤岡 琢也 | |
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1962年 | |
| 本名 | 藤岡 琢也[1] |
| 生年月日 | 1930年9月4日 |
| 没年月日 | 2006年10月20日(76歳没) |
| 出身地 |
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| 死没地 |
(慶應義塾大学病院)[1] |
| 身長 | 165 cm |
| 血液型 | O型 |
| 職業 | 俳優、声優 |
| 活動期間 | 1957年 - 2006年 |
| 活動内容 | 1957年:劇団「葦」へ入団 |
| 配偶者 | あり(1960年 ‐ 2006年、2007年死去) |
| 主な作品 | |
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テレビドラマ 『渡る世間は鬼ばかり』 『ケンチとすみれ』 『はまぐり大将』 『家族戦争』 『オレの愛妻物語』 『事件記者チャボ!』 『気分は名探偵』 『おやじのヒゲ』シリーズ 映画 『喜劇 頑張れ!日本男児』 『喜劇 男売ります』 CM サンヨー食品(サッポロ一番みそラーメン) | |
| 受賞 | |
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第4回ギャラクシー賞受賞 菊田一夫演劇大賞特別賞 | |
藤岡 琢也(ふじおか たくや、1930年〈昭和5年〉9月4日[2] - 2006年〈平成18年〉10月20日[1])は、日本の俳優、声優。
来歴・人物
[編集]1930年、姫路市にて会社員の父・憲一の第一子として誕生[注釈 1]。当時としては裕福な家庭に育ち、成績は優秀だった。
旧制姫路中学校(現:兵庫県立姫路西高等学校)から広島陸軍幼年学校に進学するが、終戦により姫路中に復学後、学制改革により関西学院高等部に編入[3]。
1947年に慶応義塾大学を受験するが不合格となり翌年、再度受験するがそれも不合格となる[3]。第二志望だった明治大学商学部に進学するも父親の意向で関西学院大学に移り、翌年に結核を患い中退[3]。
1953年、関西学院大学文学部社会学科に再入学[3]。ラジオドラマの演出家を志し、大学在学中にNHK大阪放送局を見学したことがきっかけで、大阪放送劇団の入団試験を冷やかし半分で受験し合格するが、劇団から大学中退を求められたため、大阪放送局ラジオサークルでラジオドラマについて学び大学卒業後にNHKの採用試験を受けることを決めるが、結核が再発し、大学を中退したことからそれも不可能となる[3]。
そんな時、ラジオドラマに近い仕事として吹き替えの仕事に興味を抱く、NHK大阪放送局のディレクターであった前田達郎から声優の仕事を行っている俳優が多く在籍する劇団葦を紹介される[3]。入院中にラジオ作家の堀江史朗の弟と知り合い、退院後、芸能界入りのため堀江を頼って上京したが、堀江は藤岡が「平凡な顔立ち」という理由で、「姫路で働きながらアマチュア劇団でも作るんだね」と答えた[3]。
1957年に劇団「葦」の研究生となる[3]。同年には、シモーヌ・ド・ボーヴォワール作の翻訳劇『ごくつぶし』のパンを運ぶ男役で初舞台で初舞台を踏む[3]。
その後、アルベール・ユッソン作の翻訳劇『俺たちは天使じゃない』の最後に登場する二枚目の海軍士官役で初めて台詞のある役を貰うが、公演中にミスをし、台詞もまとも言えない状態になってしまう[3]。それが原因となり、劇団の本公演に出演することはなく、裏方として主に音響効果を担当した[3]。
劇団の俳優が出演する吹き替えの台本制作のための仕事をしていた際、出演予定だった俳優が急病で降板したことから急遽、藤岡が出演することとなり、声優としての活動を開始[3]。ドナルド・ダック役が好評となった[3]。
1966年に『事件記者』に急逝した清村耕次の後任としてレギュラー出演し、世間に広く知られた。続いて『横堀川』での主人公を慕い協力する寄席芸人・ガマ口役でその演技力を認められ、第4回ギャラクシー賞を受賞した。
映画ではお調子者の中間管理職や中小企業の社長役を演じた。初の主演映画は1970年の『喜劇 頑張れ!日本男児』。映画では、小狡い小悪党の役も巧くこなし、単なる善良な父親だけではない幅広い役柄を演じた。1969年から森繁久彌主演の映画『社長シリーズ』にも数本出演し、1970年には明治座において森繁劇団10周年記念公演に出演した。1986年10月29日から、TBS系で放送された森繁主演のテレビドラマシリーズである『おやじのヒゲ』に10年にわたってレギュラーとして出演した。森繁からはプライベートでも実弟のように大変可愛がられていたという。小林桂樹とも昔からの共演が縁でとても仲が良かったといい、晩年はツーカーの携帯電話のCMで一緒に共演している。
テレビドラマでは、大阪を舞台とした商人ものやホームドラマなどに数多く出演。特にホームドラマでは、小太り・黒縁の眼鏡・口ヒゲといった特徴的な風貌で登場し、「家に帰ると背広から和服に着替えて一杯飲む」という、昭和時代の典型的な日本の父親を演じた。また、関西弁を誇張した役も演じた。
1969年から2004年までの35年間、サンヨー食品の「サッポロ一番みそラーメン」のCMに出演していた[注釈 2]。
1975年、橋田壽賀子脚本「愛ってなぁーに」の出演をきっかけに、多くの橋田作品に起用された。特に1990年よりスタートした『渡る世間は鬼ばかり』での五人姉妹の父親である岡倉大吉役は代表作として広く知られた。
2006年2月21日、肺炎のために『渡る世間は鬼ばかり』を降板[注釈 3]。同年10月20日午後3時18分、慢性腎不全のため東京都新宿区の慶應義塾大学病院で死去[1][4]。76歳没。戒名は「夢藤岡琢也霊位」。「渡る世間は鬼ばかり」2005年3月放送の第7シリーズ最終話が藤岡の遺作となった。
2006年10月24日、増上寺において葬儀がとりおこなわれた。会場には生前本人が好きだったジャズ音楽が流された。『渡る世間は鬼ばかり』の石井ふく子プロデューサー、岡倉家の五人姉妹(長山藍子、泉ピン子[注釈 4]、中田喜子、野村真美、藤田朋子)やドラマの共演者が葬儀に参列している。弔辞はピン子が読み上げ、藤岡の出棺の際には親友の長門裕之が「琢さん お疲れ様」と声を挙げていた。他に水前寺清子も参列していた。
弟子に藤井つとむらがいた。
エピソード
[編集]- 桂米朝は小学校の先輩で、遠足の時に案内で手をつないでもらった。
- キダ・タローは大学時代の同級生であり在学中に同じタンゴバンドに所属する音楽仲間であった。藤岡の担当はバイオリン、キダ・タローの担当はアコーディオンだった[5]。その後、30歳近くになった時に初めてNETテレビ(現在のテレビ朝日)『モーニングショー』の「ご対面」コーナーで共演することになる時まで、キダは俳優・藤岡琢也が同級生の藤岡茂とは知らなかったという[5][6]。なおキダによれば、この番組の収録または放送前において二人は事前にメイク室で顔を合わせており、藤岡から「うまいことやってや」とも言われていた。だが番組はあくまで対面の瞬間まで藤岡はキダが来るとは知らない、と言う設定で進められており、藤岡はこの大きさはアコーディオンかな、ひょっとして木田ちゃん?......などと、役者っぷりを発揮したという。なおキダの方はこういうヤラセは気にくわなかったとのことである[6]。藤岡が亡くなったことを聞いたキダは「悲しい」とコメントした。
- 戦時中は、供出で不足した鉄針の代わりに小指の爪を尖らせてレコード盤面に当て、親指を耳に当てて音を聴いたという、熱心な音楽好きをうかがわせるエピソードが残っている。
- 広島陸軍幼年学校二年在学中の1945年8月6日に広島市への原爆投下を経験しているが、自身は被爆していない。これは同年7月末に同校出身者で時の陸軍大臣阿南惟幾が幼年学校を疎開させていた[注釈 5]ためである[7]。
- 無名時代、支配人から「君は役者に向いていない」と言われ、嘉穂劇場では裏方として音響効果を担当していた。
- 俳優仲間からは「タクさん」の愛称で親しまれた。
- 無名時代から渥美清、若山富三郎、長門裕之とは親交が深かった。渥美が一番年上だったが、当時は毎晩のように4人で集まっては遊んでいたという。藤岡の死去後には長門がインタビューに応じて生前の思い出話を語った。
- 1966年の『紅白歌合戦』に紅組応援団として参加した[注釈 6]。
- 晩年はキムタクをもじった「フジタク」という愛称で親しまれた。フジタクは一時期『痛快!明石家電視台』の番組マスコット(着ぐるみ)になった。
- ドラマでは典型的な昭和時代の日本の父親を演じたが、実生活では子供がいなかった。
- 映画でヤクザを演じる場合、主人公に倒されたり、引退するなどやられ役が多かった。
- 阪急ブレーブスのファンである[8]。