大和 (百貨店)
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本社がある片町きらら | |
| 種類 | 株式会社 |
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| 市場情報 | |
| 略称 | ダイワ |
| 本社所在地 |
〒920-8561 石川県金沢市片町二丁目2番5号 片町きらら5階[1] 北緯36度33分39秒 東経136度39分10秒 / 北緯36.56083度 東経136.65278度座標: 北緯36度33分39秒 東経136度39分10秒 / 北緯36.56083度 東経136.65278度 |
| 設立 | 1943年(昭和18年)12月21日[2] |
| 業種 | 小売業 |
| 法人番号 | 6220001003957 |
| 事業内容 | 百貨店業 |
| 代表者 | 代表取締役社長 宮二朗[1] |
| 資本金 | 34億6270万円[1] |
| 発行済株式総数 | 600万3千株[1] |
| 売上高 |
単体326億54百万円 連結339億30百万円 (2021年2月期)[1] |
| 経常利益 |
単体△2億2百万円 連結△8億45百万円 (2021年2月期)[1] |
| 純利益 |
単体△2億58百万円 連結△4億12百万円 (2021年2月期)[1] |
| 純資産 |
単体14億25百万円 連結31億75百万円 (2021年2月期)[1] |
| 総資産 |
単体232億55百万円 連結280億78百万円 (2021年2月期)[1] |
| 従業員数 |
単体430人 連結643人 (2021年2月28日現在)[1] |
| 支店舗数 | 百貨店2店舗のほか、サテライトショップなど |
| 決算期 | 毎年2月末日[1] |
| 主要株主 |
宮二朗 9.34% 倉敷紡績 5.22% 東京海上日動火災保険 5.08% 一般財団法人大和文化財団 3.56% 北國銀行 3.42% (2021年2月28日現在)[1] |
| 主要子会社 | 本項『#関連企業』参照 |
| 関係する人物 |
井村徳三郎(創業者) 林屋亀次郎(元会長) 井村徳二(元社長) 宮太郎(元社長) |
| 外部リンク | https://www.daiwa-dp.co.jp/ |
株式会社大和(だいわ、英: Daiwa Co., Ltd.)は、石川県金沢市に本社を置き、北陸地方に2店舗とサテライトショップをもつ、日本の百貨店である。
概要
[編集]宮市洋品店から宮市百貨店へ
[編集]宮市三郎が商店を営み、その三男で井村家の養子となった井村徳三郎が兄が亡くなったために帰郷して宮市洋品店を石川県金沢市片町で開業したのが始まりである[3]。
洋服、洋酒、帽子など複数の店舗に分かれて営業していた時期もあったが、1903年(明治36年)に現在の片町きららの場所に宮市洋品店として一つの店舗にまとめ、1906年(明治39年)に金沢市に老舗の製茶業を経営する林屋一族の林屋次三郎が合名会社林屋組を設立して洋食器などの硬質陶器の製造を行うことになった際には資本金5万円のうち1万円を出資して宮市洋品店がその一手販売権を取得する(この一手販売権は林屋組が日本硬質陶器株式会社に事業を引継いだ際に解消された)[3]など急速に成長した。
この頃既に宮市洋品店は個人営業ではなく、宮市合名会社として営業していた[3]。
この洋品店を元に井村徳三郎が京都大丸と提携して1923年(大正12年)10月15日に金沢市片町で宮市百貨店として開業したのが百貨店としての始まりである[4]。
宮市大丸への改名および「富山店」「福井店」「(朝鮮半島北部)清津店」の相次ぐ出店
[編集]1930年(昭和5年)8月には株式会社宮市大丸を設立して株式会社化し、店舗名も改めている[4]。
宮市大丸は設立当初から北陸三県全域への営業展開を狙い、富山市や高岡市、石川県大聖寺(現:加賀市)、福井市など北陸三県の主要な各地区に出張販売を行い、富山市には出張員詰所を設置した[5]。
この富山の出張員詰所の売上が極めて良好だったため1931年(昭和6年)末には富山に百貨店の出店を決定し、出店のための用地買収を終えると富山支店開設事務所の看板を出すなど着々と準備を進めたが、このストレートな出店戦略が裏目に出て地元の小売商が進出阻止の期成同盟会を結成して富山県や富山市に反対の陳情を行うと共に200人以上でデモ行進を行うなどの猛烈な反対運動に見舞われることになった[5]。
こうした反対運動を乗り越えて1932年(昭和7年)8月20日に富山市西町で一部営業を開始し[6]、同年11月10日に宮市大丸富山店を開店して百貨店の多店化の第一歩を踏み出した[4]。
宮市大丸富山店は(1930年(昭和5年)に開業していた三越金沢店[7]との競争を行っていた)宮市大丸金沢本店を上回る売上を上げ[4][5]、1934年(昭和9年)12月2日に鉄筋コンクリート造り6階建[6]に増築して[4]中核店舗の一つとなった。
宮市大丸金沢本店は(1930年(昭和5年)に老舗製茶業の一族だった林屋亀次郎が武蔵ヶ辻に建設したビルに開業していた三越金沢店が高級品や中級品を主としていたのに対して[7]大丸と提携して[新聞 1])、中級品以下の格安品を集めて商品の回転率を高める大衆的営業を展開。わずか5年で三越金沢店を撤退に追い込み[7]、金沢を代表する百貨店としての地位を固めた。
1936年(昭和11年)5月には以前から富山に続く百貨店の進出先として構想していた福井市への出店について、近代的な百貨店の誘致を考えていた三国町の県会議員濃畑三郎、福井銀行重役森田三郎右衛門らの協力により福井銀行が所有していた福井駅前の土地を取得できることになって出店の目処がついた。
この福井出店に際しては、富山で生じたような反対運動を避けるため、濃畑三郎を代表とする福屋という名称で建築申請を行うなど、「宮市大丸」の名を出さないように考慮したが、同年7月頃には「実質的には宮市大丸福井店」との噂が広まって反対の市民集会や福井市内72の小売商組合が福井県警察部長に面会して反対の陳情を行うなどその狙いは成功しなかった。
しかし、「百貨店進出を阻止しうる根拠は何もない」「消費者階級にとつては新デパートの出現を賛成している」として同月18日に許可が下り[5]、1936年(昭和11年)12月5日に福屋を開店にして事実上進出を果たし[8]、翌年1937年(昭和12年)9月に合併して宮市大丸福井店として正式に進出し[4]、北陸三県の県庁所在地全てを網羅する百貨店チェーンを構築した。
日中戦争の進展に伴う戦時統制経済下で民間向けの百貨店事業が縮小した際には、地元に本拠を置いていた日本陸軍第9師団への軍需を獲得して業績の維持を図り[9]、1940年(昭和15年)10月に第9師団の満州進駐が決まると、御用商社として満州に同行する許可を取り[9]、その拠点も兼ねて朝鮮と満州との国境線に近い朝鮮半島北部咸鏡北道の港街「清津」に、その発展を目指した現地の日本人の商人から清津駅前の土地の提供を受けて[9]、 1940年(昭和15年)12月に宮市大丸清津店として百貨店を開業し[4]、軍需と現地の新市場開拓の両立を目指した[9]。
なお、宮市大丸は現在の日本百貨店協会の前身の日本百貨店商業組合に、1933年(昭和8年)4月20日の創立総会のときから参画している[10]。
丸越との合併(大和の誕生)
[編集]戦時統制の進展に伴う企業統合令の発令により統合を求められたため、1943年(昭和18年)12月21日に同じ金沢に本店を置く百貨店チェーンだった丸越と合併して、林屋亀次郎が会長で井村徳二を社長とする資本金310万円の株式会社大和を設立し、店舗名も大和に変更された[4]。
これに伴い、大和は(片町の旧宮市大丸本店だった)金沢本店(のちの「ラブロ片町」)・富山店・福井店・清津店の他に、旧丸越系支店である武蔵店(旧丸越金沢本店)・新潟店(旧萬代百貨店)・高岡店も加わった北陸三県・新潟県・(現在は北朝鮮の一部である)咸鏡北道に跨る計7店舗を傘下に治める広域百貨店チェーンとなった[4]。
戦後
[編集]第二次世界大戦が終戦を迎えて朝鮮半島が日本の植民地でなくなったことに伴って1945年(昭和20年)9月に大和清津店が消滅し[4]、1948年(昭和23年)6月28日に発生した福井地震で店舗が倒壊した[新聞 2]ことを受けて大和福井店をそのまま閉店[4]、さらに林屋が選挙に出馬するために退任するのに伴って1952年(昭和27年)7月には大和武蔵店を閉店し[4]、武蔵店建物は再びライバル百貨店「(新生)丸越」(のちの「金沢名鉄丸越百貨店」初代店舗建物)として復活する事となった。
この際に(旧丸越系支店の)大和高岡店・大和新潟店は大和に残された為、大和金沢本店・大和富山店と合せて石川県・富山県・新潟県の三県に4店舗を展開する百貨店チェーンとなった。
「長岡店」「小松店」出店および金沢本店の移転
[編集]1958年(昭和33年)10月18日に新潟県長岡市大手通2丁目に[11]新潟県では第二次世界大戦後初の百貨店となる長岡店を開業した[12]のを皮切りに出店を再開し、1975年(昭和50年)7月には上越市本町4丁目に上越店[新聞 3]、1998年(平成10年)3月21日には小松駅前の西武百貨店小松店跡を買収して小松店を開店する[13]など再び多店化を進め、ピーク時には再び百貨店だけで7店舗を経営した。
また、金沢市香林坊地区の再開発に参画して1986年(昭和61年)9月に本店を片町から香林坊アトリオへ移転・増床させた[1]のを皮切りに、高岡市の御旅屋地区の再開発に参画して1994年(平成6年)3月18日[14]に旧店舗隣に完成した御旅屋セリオに移転・増床[1]、富山市の総曲輪地区の再開発に参画して2007年(平成19年)9月21日に総曲輪フェリオに富山店を移転・増床する[新聞 4]など石川県と富山県の既存店全てを再開発ビルに進出させたほか、1998年(平成10年)には長岡店周辺の再開発準備組合に参加する[新聞 5]など再開発による既存店の更新にも積極的に取り組んでいた。
こうした積極策により香林坊大和が1998年(平成10年)2月期に425億円、2011年(平成23年)2月期に242億円の売上を上げ[新聞 6]、富山店が総曲輪フェリオに移転した最初の1年間で200億円以上の売上を上げる[新聞 7]。
事業の多角化
[編集]1948年(昭和23年)に出版部門の勁草書房を設立し[15]、1970年(昭和45年)3月に株式会社勁草書房として独立させる[1]など出版業へ進出したのを皮切りに、1953年には北陸新聞の経営を北日本新聞社から引き継ぎ、1954年(昭和29年)10月に株式会社大和印刷社を設立して[1]印刷業に、1967年(昭和42年)12月には株式会社大和ハウジングを設立[1]して家具販売に、1967年(昭和42年)に石川日産自動車販売株式会社を傘下に入れて[新聞 8]自動車販売に、1970年(昭和45年)9月に金沢ニューグランドホテルを設立して[1]1972年(昭和47年)5月18日にシティホテル金沢ニューグランドホテルを開業させて[4]ホテル業にと様々な業種へ子会社などを通じて進出して多角化が進められた。
新潟店に隣接する道路に1976年(昭和51年)に地下街西堀ローサを開業させた新潟市の第三セクター「新潟地下開発」[新聞 9]に三越と並んで22%出資して[新聞 10]地下食料品売り場と直結[新聞 11]させたり、1985年(昭和60年)9月に株式会社ディー・アンド・シー(100%出資子会社)を設立して[1]1986年(昭和61年)11月に[1]旧本店を専門店を中心とする「ラブロ片町」[新聞 12]として開業する[1]など百貨店の店舗周辺や店舗跡の商業施設にも参加している。
また、第2次世界大戦後に各地で民間放送が設立された際には百貨店を展開している石川県・富山県・新潟県の三県内に設立された放送会社の北陸放送[16]、新潟放送[17]、北日本放送[18]、テレビ金沢[16]に出資するなど営業エリア内の民間放送にも関与している。
店舗網の再編
[編集]リーマンショック後の2009年(平成21年)2月期の連結決算で法人化後初の営業、経常赤字に転落して最終赤字28.44億円となった大和[新聞 13]は、2009年(平成21年)10月15日に2010年(平成22年)2月期が4期連続最終赤字となる見通しで[新聞 14]、売上高はピークから半減して[新聞 15]合計10億円弱の[新聞 16]営業赤字となっているだけでなくビルの老朽化も問題となっている上[新聞 15]、赤字幅が増大していて[新聞 14]今後も回復は見込めないとして[新聞 10]建物の原状回復費など閉店費用約45億円[新聞 14]で新潟、長岡、上越、小松店の4店を2010年(平成22年)6月までに閉鎖し[新聞 16]、同時に特別退職金約9億円[新聞 14]で全従業員約1320人を対象に[新聞 16]その35%に当たる470人の希望退職を募集し[新聞 15]、2009年(平成21年)2月期決算で営業黒字を確保していて建物の比較的新しく耐震性も含めハード面の投資が比較的少なくすむ香林坊、富山、高岡の3店体制へ集約して[新聞 15]2011年(平成23年)2月期に営業利益の黒字転換を目指す[新聞 14]大規模な事業再編計画を発表した。
この発表の際には自社物件である新潟店と長岡店の土地・建物は売却し、「西堀ローサ」を運営する第三セクター・新潟地下開発への出資も将来的に引き揚げて新潟県から撤退する方向で検討していると発表していた[新聞 17]。
その発表通り2010年(平成22年)4月25日に長岡店[新聞 5]と上越店[新聞 18]、同年6月25日に新潟店[新聞 19] と小松店[新聞 20] を閉店した。
この結果「新潟にこだわる相談役(宮太郎)の下では撤退は許されない」とされてきた[新聞 1]新潟県内の百貨店事業から完全に撤退することとなった。
関連企業の再編
[編集]2009年(平成21年)10月15日の4店閉店などの発表の際に子会社再編については今後の課題としていたが[新聞 16]、2011年(平成23年)5月23日に子会社で大和ハウジングが営業していた家具・インテリアショップを閉店し[新聞 21]、同月末31日に保有していた石川日産自動車販売の約48%の全株式を日産プリンス金沢を傘下に持つ米沢電気グループの北星産業に譲渡して自動車販売事業から撤退[新聞 8]と相次いで関連会社による事業の整理を行った。
店舗改革
[編集]存続店舗についても「百貨店の王道を歩みながら、バランスを考えていきたい」と低価格商品の導入拡大など価格戦略や商圏の見直し[新聞 22]や富山店と高岡店の営業部門の統合[新聞 15]などの見直しを行いながら、赤字の為に抑制してきた設備投資を再開して基幹店の香林坊店と富山店で若い顧客を狙った改装を進め[新聞 23]、特に香林坊店は2011年(平成23年)9月の食料品売場改装を皮切りに2012年(平成24年)2月1日から3月8日にかけて婦人ファッションを中心に27ブランドを導入して[新聞 24]家庭用品や呉服売場も改装する香林坊店開店後最大規模の改装を行い[新聞 24]、同年9月にレストラン街と子供服売場の改装を予定するなど[新聞 23]、2年間かけて全館改装を行う計画とし[19]、積極的な投資で収益確保を目指している。
存続した3店舗のうち高岡店は売場を縮小して[新聞 25]その跡に2011年(平成23年)2月25日に高岡市子育て支援センター[新聞 26]、同年3月10日には北日本新聞カルチャーパーク高岡のほか地元有力企業5社の施設が入居する[新聞 25]など地元の政財界の支援を受けながら売場縮小と集客力の改善の両立を図り、2012年(平成24年)3月から閉店時間を1時間早めて午後6時とする[新聞 27]などコストダウンを優先した縮小均衡路線が採られている。
また2009年(平成21年)10月15日時点では香林坊店や富山店や高岡店を補てんする役割があるとして石川県・富山県内のギフトショップとサテライトショップはすべて維持されていたが[新聞 15]、単独で収益が上がっているサテライトショップ2店は食料品や衣類などの品ぞろえを拡充してイベントなども増やして強化する一方で[新聞 28]、ギフトショップについてはネット通販の普及や交通の利便性向上などで利用者が減り採算が取れず[新聞 29]役割を終えたとして[新聞 28]、2011年(平成23年)5月に野々市、12月に氷見と砺波、2012年(平成24年)2月15日に輪島と羽咋、2月末には魚津店の営業を終了してパトリア大和と小松ギフトショップの2拠点のみに集約した[新聞 28]。
大丸との関係
[編集]井村徳三郎が宮市百貨店を創設する際に京都大丸と提携し、その後1930年(昭和5年)に三越金沢店が開業した際にも大丸と提携して対抗するなど創業期から繋がりを持ち[新聞 1]、2010年(平成22年)には2人の人材派遣を受けてその内の一人が取締役に就任しているほか[新聞 6]、商品開発や情報提供などで連携[新聞 6]や情報システム共有化[新聞 30]や商品券の相互利用などを行う現在も強い結びつきを維持している[新聞 30]。
そうした提携の関係もあり、以前から大丸の株100万株を保有していたため、2012年(平成24年)2月29日時点でも大和はJ・フロントリテイリング140万株を保有している[16]。
CIと並行して使用されている大和の社紋は、大丸の社紋(丸で囲んだ大の字)の丸の部分を梅の形に置き換えたものを使用している。
創業家による経営
[編集]創業者の井村徳三郎の後、宮市大丸の社長に就任して大和の初代社長も務めた井村徳二は井村徳三郎の息子であり[3]、井村徳二の後に大和の社長を務めた宮太郎は井村姓ではないが井村徳三郎の孫で[3]、現在の社長の宮二朗は宮太郎の息子である[17]ため、現在まで創業家によるオーナー色の強い[新聞 1]経営が続いている。
初代社長と初代会長の選挙戦
[編集]1953年(昭和28年)4月24日投票の第3回参議院議員通常選挙には合併により当社が誕生した際の会長だった林屋亀次郎が第4次吉田内閣の現役大臣として再選を目指していたところに、初代社長を務めていた井村徳二が対立候補として立候補して林屋が大臣として決定を下した内灘試射場の用地接収(内灘闘争)を批判して組合を味方につけて林屋を破る激しい選挙戦を繰り広げた[20]。
当時林屋が旧丸越本店の場所で後に丸越となる百貨店を武蔵[21]として経営し、井村が大和を経営していたため、このときの争いは「武蔵」と「大和」の内灘沖会戦と呼ばれた[20]。
上場
[編集]1949年(昭和24年)7月に地元北陸地方を管轄していた新潟証券取引所に上場、1961年(昭和36年)10月からは大阪証券取引所第2部にも上場していた[1]。
その後2000年(平成12年)3月に新潟証券取引所廃止が東京証券取引所に吸収された際に同取引所第2部に上場となり[1]、大阪証券取引所と2市場で上場し続けてきたが、2011年(平成23年)7月15日に 大阪証券取引所へ上場廃止を申請して8月30日に上場廃止[22]となり、現在は東京証券取引所のみ上場している。
沿革
[編集]
- 1923年(大正12年)10月15日:井村徳三郎が京都大丸と提携し、石川県金沢市片町に宮市百貨店を創設(現:片町きらら)[4]。
- 1930年(昭和5年)8月:株式会社宮市大丸を設立し、株式会社化[4]。

- 1932年(昭和7年)11月10日:富山県富山市に富山店開設[4]。
- 1936年(昭和11年)12月5日:福井県福井市に福屋を開店して事実上進出[8]。
- 1937年(昭和12年)9月:合併により宮市大丸福井店を開設[4]。
- 1940年(昭和15年)12月:朝鮮の清津市に清津店を開設[4]。
- 1943年(昭和18年)12月21日:丸越と合併し、株式会社大和を設立[4]。
- (金沢・武蔵・新潟・富山・福井・高岡・清津・計7店舗 資本金3100千円)
- 1945年(昭和20年)9月:終戦により清津店が消滅[1]。
- 1948年(昭和23年)
- 1949年(昭和24年)7月:新潟証券取引所上場[1]。
- 1952年(昭和27年)7月:武蔵店を閉鎖[16]。
- 1955年(昭和30年)10月1日:新潟大火により新潟店が焼失[新聞 31]。
- 1958年(昭和33年)10月18日:新潟県長岡市に長岡店を開設[11]。
- 1961年(昭和36年)10月:大阪証券取引所2部上場[1]。
- 1967年(昭和42年)
- 1970年(昭和45年)
- 1972年(昭和47年)5月18日:石川県金沢市に金沢ニューグランドホテルを開業[4]。
- 1973年(昭和48年)3月:石川県金沢市に株式会社大和カーネーションサークルを設立[1]。
- 1975年(昭和50年)
- 1985年(昭和60年)
- 1986年(昭和61年)
- 1994年(平成6年)3月18日:高岡店を旧店舗隣接地に開設の御旅屋セリオへ移転[14]。
- 1998年(平成10年)3月21日:石川県小松市の小松西武跡に小松店を開設[13]。
- 2000年(平成12年)3月:新潟証券取引所廃止により、東京証券取引所2部上場[1]。
- 2007年(平成19年)9月21日:富山店を総曲輪フェリオへ移転[新聞 4]。
- 2009年(平成21年)
- 2010年(平成22年)
- 2011年(平成23年)8月30日:大阪証券取引所上場廃止[22]。
- 2015年
- オンラインショップ「大和ほくりく倶楽部」を開設[26]。
- 2019年(令和元年)
- 2021年(令和3年)
- 2026年(令和8年)
店舗
[編集]香林坊店
[編集]| 香林坊店 | |
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| 店舗概要 | |
| 所在地 |
〒920-8550 石川県金沢市 |