古河城の戦い
| 古河城の戦い | |
|---|---|
古河城本丸跡 | |
| 戦争:享徳の乱 | |
| 年月日:文明3年(1471年)6月 | |
| 場所:下総国葛飾郡下河辺荘古河城(茨城県古河市) | |
| 結果:上杉氏の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 古河公方 | 上杉氏 |
| 指導者・指揮官 | |
| 足利成氏 ほか |
長尾景信 ほか |
| 戦力 | |
| 不明 | 不明 |
| 損害 | |
| 不明 | 不明 |
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戦いに至るまで
[編集]享徳4年(1455年)6月、幕府軍が鎌倉を占拠した[1][2]。これにより、鎌倉公方の足利成氏は鎌倉に帰還できなくなり、以後は下総の古河を本拠とした(古河公方)[1][3]。
文明3年(1471年)3月、千葉氏や小山氏、結城氏といった成氏方の軍勢が堀越公方攻撃のため、大挙して南に向かい、箱根山を越えて伊豆の三島郡に攻め込んだ[4][5]。だが、成氏方は上杉方との戦いに敗れ、古河に逃げた[4]。この成氏方の軍事行動は、かえって上杉方を勢いづかせる結果となった[6][5]。
経過
[編集]4月、上杉方は成氏方に大規模な攻勢をかけ、同月15日には足利荘の赤見城を攻略した[7][5][8]。赤見城攻撃は、山内上杉氏家宰の長尾景信を主将とした軍勢によって行われた[7]。これを受け、将軍の足利義政は上杉顕定や家宰の長尾景信、岩松家純らに対し、感状を出している[7]。
また、同時期に上杉方は足利荘の樺崎城も攻略しており[5]、成氏方の南式部大輔父子が討たれている[7]。義政はこれを受け、山内上杉氏宿老の長尾景人に感状を出している[7]。
5月30日、義政は越後に帰国していた上杉房定に関東出陣を命じ、在京中の岩松明純(家純の子)にも関東下向を命じた[9]。また、同日に義政は関東や陸奥の諸氏らに対して、一斉に御内書を発給した[10]。
上杉方は進軍し、成氏の本拠である下総の古河城に押し寄せた。成氏方の武士は防戦したものの、上杉方は大軍であり、6月24日に城は陥落した[9][11]。
この攻撃により、成氏は古河城から脱出し、下総本佐倉(酒々井町)の千葉輔胤・孝胤父子を頼って落ちのびている[12][11]。
戦後
[編集]成氏の本拠を陥落させるという勝利に、長尾景信ら上杉方は歓喜したとみられる[11]。だが、上杉方は古河城を陥落させたものの、成氏を捕らえることには失敗しており、禍根を残す形となった[11]。成氏方がこの戦いで壊滅したわけでもなく、関東での戦乱は収束しなかった[12]。
そのため、上杉方は結城直朝に関東出陣を要請し、成氏方への攻撃を進めている[12]。また、10月頃に扇谷上杉氏前家宰の太田道真が越後に下向しているが、これは上杉房定に関東出陣を求めるためだったとみられる[12]。
文明4年(1472年)正月に入ると、成氏方が反撃の準備を進めた[13]。そして、2月3日に雪下殿定尊(成氏の弟)が古河城奪還に向けて出陣し、25日までに城を奪い返した[13]。
古河城奪還を受け、成氏は千葉館を発ち、結城城に入った[13]。成氏が没落してから8か月後の出来事であった[13]。また、成氏が古河城に帰還すると、宇都宮氏や真壁氏、小山氏が相次いで帰参した[13]。