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古河城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
古河城の戦い

古河城本丸跡
戦争:享徳の乱
年月日:文明3年(1471年)6月
場所:下総国葛飾郡下河辺荘古河城(茨城県古河市)
結果:上杉氏の勝利
交戦勢力
古河公方 上杉氏
指導者・指揮官
足利成氏
ほか
長尾景信
ほか
戦力
不明 不明
損害
不明 不明
享徳の乱


古河城の戦い(こがじょうのたたかい)は、室町時代中期の享徳の乱において、古河公方と上杉氏との間で行われた戦闘。

戦いに至るまで

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享徳4年(1455年)6月、幕府軍が鎌倉を占拠した[1][2]。これにより、鎌倉公方の足利成氏は鎌倉に帰還できなくなり、以後は下総の古河を本拠とした(古河公方)[1][3]。

文明3年(1471年)3月、千葉氏や小山氏、結城氏といった成氏方の軍勢が堀越公方攻撃のため、大挙して南に向かい、箱根山を越えて伊豆の三島郡に攻め込んだ[4][5]。だが、成氏方は上杉方との戦いに敗れ、古河に逃げた[4]。この成氏方の軍事行動は、かえって上杉方を勢いづかせる結果となった[6][5]。

経過

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4月、上杉方は成氏方に大規模な攻勢をかけ、同月15日には足利荘の赤見城を攻略した[7][5][8]。赤見城攻撃は、山内上杉氏家宰の長尾景信を主将とした軍勢によって行われた[7]。これを受け、将軍の足利義政は上杉顕定や家宰の長尾景信、岩松家純らに対し、感状を出している[7]。

また、同時期に上杉方は足利荘の樺崎城も攻略しており[5]、成氏方の南式部大輔父子が討たれている[7]。義政はこれを受け、山内上杉氏宿老の長尾景人に感状を出している[7]。

5月30日、義政は越後に帰国していた上杉房定に関東出陣を命じ、在京中の岩松明純(家純の子)にも関東下向を命じた[9]。また、同日に義政は関東や陸奥の諸氏らに対して、一斉に御内書を発給した[10]。

上杉方は進軍し、成氏の本拠である下総の古河城に押し寄せた。成氏方の武士は防戦したものの、上杉方は大軍であり、6月24日に城は陥落した[9][11]。

この攻撃により、成氏は古河城から脱出し、下総本佐倉(酒々井町)の千葉輔胤・孝胤父子を頼って落ちのびている[12][11]。

戦後

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成氏の本拠を陥落させるという勝利に、長尾景信ら上杉方は歓喜したとみられる[11]。だが、上杉方は古河城を陥落させたものの、成氏を捕らえることには失敗しており、禍根を残す形となった[11]。成氏方がこの戦いで壊滅したわけでもなく、関東での戦乱は収束しなかった[12]。

そのため、上杉方は結城直朝に関東出陣を要請し、成氏方への攻撃を進めている[12]。また、10月頃に扇谷上杉氏前家宰の太田道真が越後に下向しているが、これは上杉房定に関東出陣を求めるためだったとみられる[12]。

文明4年(1472年)正月に入ると、成氏方が反撃の準備を進めた[13]。そして、2月3日に雪下殿定尊(成氏の弟)が古河城奪還に向けて出陣し、25日までに城を奪い返した[13]。

古河城奪還を受け、成氏は千葉館を発ち、結城城に入った[13]。成氏が没落してから8か月後の出来事であった[13]。また、成氏が古河城に帰還すると、宇都宮氏や真壁氏、小山氏が相次いで帰参した[13]。

脚注

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注釈

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出典

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  1. 1 2 黒田 2021, p. 22.
  2. ↑ 山田 2015, p. 73.
  3. ↑ 峰岸 2017, p. 69.
  4. 1 2 山田 2015, p. 109.
  5. 1 2 3 4 石田 2008, p. 256.
  6. ↑ 山田 2015, p. 110.
  7. 1 2 3 4 5 黒田 2021, p. 81.
  8. ↑ 山田 2015, p. 111.
  9. 1 2 黒田 2021, p. 86.
  10. ↑ 黒田 2021, p. 80.
  11. 1 2 3 4 山田 2015, p. 114.
  12. 1 2 3 4 黒田 2021, p. 87.
  13. 1 2 3 4 5 黒田 2021, p. 92.

参考文献

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  • 石田晴男『応仁・文明の乱』吉川弘文館〈戦争の日本史9〉、2008年。 
  • 黒田基樹『図説 享徳の乱』戎光祥出版、2021年4月。ISBN 978-4-86403-382-4。 
  • 峰岸純夫『享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」』講談社〈講談社選書メチエ〉、2017年10月11日。ISBN 978-4062586641。 
  • 山田邦明『享徳の乱と太田道灌』吉川弘文館〈敗者の日本史8〉、2015年1月1日。 

関連項目

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