劉錡
劉 錡(りゅう き、1098年 - 1162年)は[1]、字は信叔、徳順軍(現在の甘粛省静寧県)の出身で[2]、南宋の抗金将領である。
生涯
[編集]劉錡は容貌英俊で、射を善くし、声は鐘の如く朗々としていた。宣和年間、高俅の推挙により閤門祗候に任じられた。
高宗が即位すると召し出されてその才を奇とされ、岷州知州・隴右都護を歴任した。西夏との戦いでは連戦連勝し、西夏では泣く子供を「劉都護が来るぞ」と脅すと、たちまち泣きやんだという。張浚が陝西宣撫使となると、その才を認められて涇原経略使兼渭州知州に起用された。富平の戦いで敗れた後、部将が金に降ったために左遷されたが、紹興3年(1133年)に復官。その後、解潜・王彦の旧部を接収・統合して六軍に再編し、ここに精鋭部隊を擁するに至った。
紹興10年(1140年)、金が三京を返還すると、劉錡は東京副留守に任じられ、八字軍など三万七千の兵を率い、家族を伴って任地へ向かった。渦口に差しかかったとき、金が盟約を破って南侵してきたとの報を受け、急ぎ順昌へと進んだ。諸将の多くは江南への撤退を主張したが、劉錡は衆議を排して舟を沈め家を焼き、決死の覚悟を示し、知府の陳規とともに順昌の守りについた。みずから防備の工事を督励し、城壁を固めて城外の住民・物資を城内に移し(堅壁清野)、六日間でおおむね準備を整えると、度重なる金軍の前鋒を撃破した。
金の兀朮は敗報を聞くと、自ら十万の大軍を率いて救援に駆けつけた。劉錡は間者を用いて弱々しい様子を見せつけ、兀朮を油断させる一方で、潁水の上流と草むらに毒を施した。遠来で疲れ果て、人馬ともに病む者が続出した金兵を、十分に休息した軍勢で迎え撃ち、まずその鋭気を挫き、次いで精鋭に鋭利な斧を持たせて出撃させ、金軍の「鉄浮図」「拐子馬」を大破した。この戦い、宋軍は二万に満たず、実際に出撃した兵はわずか五千であったにもかかわらず、数十万の金兵を大敗させ、兀朮はほうほうの体で北へ遁走した。順昌の大捷は金国を震撼させ、洪皓は燕京から密かに「金人は恐れおののき、燕の重要な財宝をことごとく北へ移し、燕以南の地を放棄しようとしている」と奏上した。劉錡はこの功により武泰軍節度使・沿淮制置使に任じられた。
紹興11年(1141年)、兀朮が再び淮西に侵入すると、劉錡は張俊・楊沂中と合流し、柘皋において金兵を大破した。敵軍は順昌の旗指物を見るや潰走したという。しかし張俊は劉錡が短期間で高位に上ったことを妬み、この戦いの恩賞を劉錡の軍にだけ与えなかった。濠州の役の後、両者の不和はさらに深まった。帰朝すると、秦檜と張俊は共謀して劉錡を誣告し、兵権を奪って荊南府知州として左遷した。荊南に在ること六年、劉錡は黄潭の水害を防ぎ止める工事を行い、数千畝の田畑を開墾し、帰農して定住した流民は数千戸にのぼった。
紹興31年(1161年)、金主完顔亮が全国の兵力を挙げて南侵すると、朝廷内外は大いに震撼したが、宿将はすでに世を去っており、朝廷は劉錡を江淮・浙西制置使に再起用した。劉錡は揚州に駐屯し、軍容はきわめて整然とし、皂角林において金兵を破り、金将の高景山を斬った。しかし部将の王権がその節制に従わず、戦わずして潰走したため、淮西一帯は尽く金の手に落ちた。劉錡は憂憤の末に病に倒れ、兵権を返上して鎮江に退いた。虞允文が采石の大捷を収めた後、劉錡はその手を取って嘆息して言った、「朝廷は三十年ものあいだ兵を養ってきたのに、大功は一人の書生出の虞允文によって立てられた。我らはまったくもって面目ない」と。
紹興32年(1162年)、劉錡は血を吐いて死去した。享年六十五。開府儀同三司を追贈され、後に「武穆」と諡された。
伝記資料
[編集]- 『宋史』巻366 列伝第125