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出版条例

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
新聞紙印行條例
日本国政府国章(準)
日本の法令
法令番号 明治2年5月13日行政官
種類 行政手続法刑法
効力 失効
主な内容 新聞の規制
関連法令 新聞紙法
条文リンク ウィキソース
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書籍准刻事務ヲ学校ニ属シ出版条例ヲ定ム
日本国政府国章(準)
日本の法令
法令番号 明治2年5月13日行政官
種類 行政手続法
効力 失効
公布 1869年6月22日
主な内容 出版物の規制
関連法令 出版法
条文リンク 国立国会図書館
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出版条例改正
日本国政府国章(準)
日本の法令
法令番号 明治5年正月13日文部省無号
種類 行政手続法
効力 廃止
公布 1872年2月21日
主な内容 出版物の規制
関連法令 出版法
条文リンク 国立国会図書館
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出版条例更定
日本国政府国章(準)
日本の法令
法令番号 明治8年9月3日太政官第135号布告 (輪廓附)
種類 行政手続法
効力 失効
公布 1875年9月3日
主な内容 出版物の規制
関連法令 出版法
条文リンク 国立国会図書館
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出版条例
日本国政府国章(準)
日本の法令
法令番号 明治20年勅令第76号
種類 行政手続法
効力 実効性喪失
公布 1887年12月29日
主な内容 出版物の規制
関連法令 出版法
条文リンク 国立国会図書館
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出版条例(しゅっぱんじょうれい)は、明治政府1869年言論統制の一環として出版物・言論の取締りを行うために公布した一連の条例である。1893年に出版法(明治26年4月14日法律第15号)と置き換わった。

概要

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幕末の1867年から1868年(慶応3年から4年)にかけて創刊された新聞は佐幕派のものが多く、官軍に不利を齎しかねなかった。そのため太政官は1868年(慶応4年/明治元年)、鳥羽・伏見の戦いののち、4月28日、6月8日と布告を行い、新聞の廃刊を命じた[1]。すると、治外法権下でイギリス人牧師が発行した「万国新聞」やアメリカ人商人が発行した「横浜新報もしほ草」などが知識層に普及した[2]、しかし、政府内には新聞や出版の振起を望む者も多かった。

初めは1869年明治2年)1月27日、行政官達により、図書を開板しようとする者が管轄府県庁を通じて行政官の官許を得る手続が設けられた。

2月8日には、学校官から新聞紙印行條例(布告第135号)が布告され、新聞の復刊や創刊、雑誌の創刊が相次いだ[2]。「出版即日2部を官に納む」ことを規定し、開成学校検閲を始めたのは、このときである[3][注釈 1]。この条例は、人の罪を評告することや、妄りに教法を説くことを禁じており、罰金規程も存在した。また翻訳書を発行するには裁判所の許可が必要であった。

次いで5月13日、行政官達の書籍准刻事務ヲ学校ニ属シ出版条例ヲ定ムにより、昌平学校開成学校の両学校に開板の許否(検閲)が移り、学校が出版条例を定めた。これが出版条例という名称となった最初の規定である。これは20箇条からなり、出版物は完成後5部を政府に納めること、翻訳物は出典情報を記載することが規定された。またさらなる特徴として、政務の機密を洩し、あるいは誹謗しおよび淫蕩を導く内容の記載を禁じるとか、図書出版者は官の保護を受けて専売の利を収めなければならないという規定があった。しかし出版差止の際に徴収された罰金は著述者への損害賠償金と見做されるなど、出版取締と版権保護の、双方の規定を含んでいた。

1872年(明治5年)1月13日の改正により出版条例と置き換わったが、これは書中の大意を具して文部省に出願し、免許の検印を得る必要があった。記載禁止事項は、成法の誹議および人罪の誣告のみになったが、前者の規定の適用により言論の自由が虐げられたこともあった。専売関係の規定は維持された。

1875年(明治8年)9月3日には、6月の讒謗律発布と相まって政府側の言論統制も厳しさを増し、出版物の届け出先が内務省となった(旧条例は太政官布告135号により廃止)[5]。版権保護規定はより詳密になり、従来の出版免許主義を廃止して、出版は予め内務省に届け出ればよいとした(ただし版権を得るには免許を要した)。また、予め原稿を徴して検閲を行い、世治に害があると判断されれば出版販売を差し止める規定を設けた。表面上は厳しい取り締まりではなかったが、出版條例罰則(8ヵ条)のうち第5条は、讒謗律及び新聞紙条例第12条以下への違反を厳罰とし、罰金上限が100円としており、これらの罰則は言論界を大きく脅かした[注釈 2]

1883年(明治16年)6月29日一部改正は、同年4月の改正により更に厳しくなった新聞紙条例第31条を準用するものであった。同31条には、式によって宣布されない公文および上書、建白、請願書は、当該官司の許可を得なければ記載してはならず、またその大意を録し、草案を掲げるのもまた同じというものであった。

さらに1884年(明治17年)10月、上記の宣布されない文書記載の図書は、条例改正以前の出版に係るものであっても、復刻抄出についてはまた官許を要する旨規定された。

以上の2者とも、その罰はきわめて重いものであった。

1887年(明治20年)12月28日、新聞紙条例その他とともに出版條例は全部改正となった。この改正は取締強化というよりは法規の整理という面が大きく、原稿検閲の規定は廃止され、全くの届出主義となった。ただ一方で、治安を害し風俗を壊乱する出版物については、内務大臣に発売頒布を禁じて印本を差し押さえる行政処分権を与え、誹毀の訴をうけた場合被告に事実の証明を許した。

また、併せて版権条例が制定公布され、版権保護の規定が分離され、出版条例の外に置かれたことも特色である。この出版条例は1893年(明治26年)4月制定の出版法の骨子に相当するもので、出版法の制定により実効性を喪失したが、形式的に廃止はされなかった。

出版条例はその名称としては1869年(明治2年5月)から1893年(明治26年)4月まで続用された。

関連項目

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脚注

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注釈
  1. 1870年代の開成学校には文部省のお雇い外国人が19名前後存在した[4]
  2. 当時は欧州の一部でも出版規制が検討されており、オーストリア=ハンガリー帝国ボスニアを武力併合した1878年、フランツ・フォン・リストの『オーストリア出版法教本』(出版取締法)を発表した。
出典
  1. 西田長寿 1966.
  2. 1 2 彌吉光長「新聞紙条例と讒謗律の犠牲者―明治初期出版変転」『出版研究』第16号、日本出版学会、51-71頁。
  3. 新聞紙印行條例。ウィキソース。
  4. 「文部省御雇外国人明細表」
  5. 『法令全書(慶應3年10月-明治45年7月) 明治8年』内閣官報局、1889年12月26日。

参考文献

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  • 『法令全書(慶應3年10月-明治45年7月) 明治8年』内閣官報局、1889年12月26日。