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禅林墨跡

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(了庵清欲から転送)
『与虎丘紹隆印可状』(圜悟克勤筆、東京国立博物館蔵、国宝)
『法語』(虚堂智愚筆、東京国立博物館蔵、国宝)
『与円爾印可状』(無準師範筆、東福寺蔵、国宝)
『関山字号』(宗峰妙超筆、妙心寺蔵、国宝)

禅林墨跡(ぜんりんぼくせき)とは、禅林高僧の真跡のこと。印可状・字号・法語・偈頌・遺偈・尺牘などがある。単に墨跡ともいい、墨蹟・墨迹とも書く。

墨跡という語は中国では真跡全般を意味するが、日本においては禅僧の真跡という極めて限った範囲にしか使わない習慣がある。その二義を区別するため、近年、後者を多くは禅林墨跡といい、その書風を禅宗様という[1][2][3][4][5]。

本項で単に墨跡は禅林墨跡を指す。

概要

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『与無相居士尺牘』(大慧宗杲筆、東京国立博物館蔵、国宝)

墨跡は武士が台頭した鎌倉時代に中国から伝来した。当時の日本の書道は、しばらく中国との国交が途絶えていたため和様色一色であったが、この時期に再び日中の交流が禅僧によってはじまり、宋・元代の禅宗の伝来とともに、精神を重視する自由で人間味に富んだ禅僧の書が流入した。これが武士階級の趣向と合致して多大な影響を及ぼし、墨跡という新しい書の分野が生まれ、日本の書道史上、重要な位置を占めるようになった。

さらに室町時代に茶道が流行すると、墨跡は古筆切とともに茶席の第一の掛軸として欠くことのできない地位を獲得し、一国一城をかけても一幅の墨跡に替えるといった狂言的な風潮も生まれた。特に江戸時代の大徳寺の禅僧の間で流行し、多くの墨跡が遺され、今日ではそれが墨跡の主流となっている[1][3][6][7][8][9]。

墨跡の二義の由来
墨跡という語の用例として、古くは中国・六朝時代の『宋書』范曄伝に、「示以墨蹟」[10][11]と見えるが、この語が広く普及したのは宋代になってからである。その中で当時の禅僧の書が数多く含まれた禅僧の詩文集に、単に真跡を意味する語として墨跡と記されていた。まさにこの頃、鎌倉時代の日本の禅僧が入宋し、禅を学び、持ち帰った禅僧の書を特に意味のないまま墨跡と称していたが、やがて専ら禅僧の書を指すようになったと推察される[3][12]。
日本で墨跡を禅僧の真跡という限定した意味で使用した古い例としては、貞治2年/正平18年(1363年)の年紀を有する『仏日庵公物目録』[注釈 1]があり、「墨蹟」という項目を設けて中国の禅僧の書と記している。法然・日蓮ら他宗の僧侶の筆跡に対して墨跡という言葉が用いられた例はほとんどない[3][12][14]。
墨跡の書風
墨跡は本来、印可状・字号・法語など、法のために書くものであって、書として鑑賞するために書いたものではない。したがって、それを書いた人物と内容が重視され、一般に書の巧拙を問題としない。つまり書法にとらわれず、各人が自在に自己の人間性を表現するものであり、自ずとその書風は千差万別であるが、概ね、北宋の蘇軾・黄庭堅風のもの、南宋の張即之風のもの、元の趙孟頫風のものに分けることができる[3][15][16][17]。
墨跡の範囲
墨跡の範囲は、中国の宋・元代の禅僧の書、日本の鎌倉時代から室町時代前期までの五山全盛時代の禅僧の書、江戸時代の大徳寺や妙心寺の禅僧の書をさす。さらに黄檗の三筆に代表される黄檗宗の書も入れているが、その中心は臨済宗のものである。また例外的に居士である張即之と馮子振の書も墨跡として扱われる場合が多い[4][15]。
墨跡は中国風の筆跡であるので広義には唐様の範囲であるが、一般に墨跡に対して唐様という表現はあまり用いない。唐様という語は実際にはもっと狭義に用いられ、江戸時代に儒学者や漢学者の間に流行をみた筆跡をさす。その書風は墨跡にさらに明の文徴明・董其昌や明末連綿草の書[注釈 2]の影響を受けたもので、墨跡と区別される[19][20][21][22][23]。

墨跡の伝来

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中国歴史
中国歴史
先史時代(中国語版)
中石器時代(中国語版)
新石器時代
黄河文明・
長江文明・
遼河文明
三皇五帝

(虞)

夏
(二里頭文化)
殷
西周
東周
春秋時代
戦国時代
秦
前漢
新
後漢
魏 蜀 呉
西晋
東晋 五胡十六国
宋 北魏
斉
梁 西魏 東魏
陳 後梁 北周 北斉
隋
唐  
武周
 
五代十国 契丹
北宋 西夏 遼
南宋 金
元
明 北元
南明 順 後金
 
清
 
中華民国 満洲国
 
中華
民国

(台湾)
中華人民共和国

日本に禅宗が伝来して以後、宋・元の間、日本では鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、禅僧の往来が頻繁になった。入宋僧は80人以上、宋から来日した僧は20人以上が知られ、元に至ってその交易はいっそう活発になり、入元僧は200人以上、元からの渡来僧は鎌倉幕府がその来日を制限しようとしたほど多くなったという。このように両国の交流は禅僧を介して密接になり、その影響は日本の政治・文学・建築・芸術にまで及び、書道の方面も中国の禅僧の墨跡が伝来して鎌倉時代の禅林の間に流行した。以下、その時代背景と墨跡の伝来について記す[3][12][16][17][24][25]。

時代背景

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中国(宋・元時代)

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「中国の近世は宋朝にはじまる」[注釈 3]といわれるように、宋代以後、中国の歴史は新しい段階に入り、貴族に代わって士大夫が活躍した時代、政治的には武人政治が解体して皇帝独裁政治の時代であった。その武人と貴族の勢力を抑えるため、官吏の任用に科挙の制を用いて文治に力を注いだ結果、文学・芸術・宗教がすこぶる興隆発展することとなった[24][27]。

書道

書道においては、北宋のはじめ約半世紀ほどは中国の伝統的書法である晋唐の書の模倣が続き、王羲之の書風が流行した。やがて唐人が書法や型に束縛されて生気を失ったことの反省から、宋人は自由に自己を表現しようと考え、蘇軾・黄庭堅・米芾の三大家によって大きく書風が革新された。その新書風は南宋に及んでも流行し、大多数の書人はそれに属するものであった。しかし南宋中期から次第に晋唐へと復古する傾向が見られ、南宋の書道には、二王を宗とするものと、宋の三大家に学ぶものとの二つの潮流があった。やがて、それが元の趙孟頫の復古調の全盛時代という形で淘汰されていくが、晋唐の書へ復古するに至った理由は、宋人が自由と個性とを尊重して古法を軽んじ、粗放になったという反省からによるといわれている。以上が宋・元時代の書道の大勢である[17][24][28][29]。

仏教

一方、宗教においては、宋・元の時期、禅仏教が盛況を呈した。宋朝は科挙によって官僚を登用する必要から儒教を重んじたが、同時に仏教や道教も保護し、この国家による保護政策によって仏教は隆盛に向かった。その中心は禅宗であり、宋代の禅宗は曹洞宗・法眼宗・雲門宗・潙仰宗・臨済宗の五家と、その臨済宗が楊岐派と黄龍派に分かれることから五家七宗と呼ばれる。宋の中期以後、楊岐派と黄龍派が次第に勢力を伸ばし、初めは黄龍派が盛んであったが、後には次第に楊岐派が優勢となった。そして南宋末の楊岐派の発展は目覚しく、殊に圜悟克勤の門下から出た大慧宗杲は多くの弟子を集めて一派をなした(大慧派)。その後、密庵咸傑の活躍により、同じく圜悟の門下の虎丘紹隆の系統(虎丘派)が盛んになり、その密庵門下では松源崇嶽・破庵祖先の2人が特に有名で、それぞれ一派をなした(松源派・破庵派)。南宋時代の禅文化に最も大きな影響を与えた無準師範は、その破庵派から出ている。

元朝は、南宋以来の漢民族の生活と文化をほぼそのまま容認したため、元代も仏教の中心は禅宗で、活躍した禅僧の多くは臨済宗であった。その中で特に重要な人として、破庵派の中峰明本、松源派の古林清茂や了庵清欲などをあげることができる。

『与無隠元晦詩』(馮子振筆、東京国立博物館蔵、国宝)

宋代に禅宗は他宗を圧倒するほどの勢いを見せたが、その要因に居士仏教の流行と出版業の隆盛がある。居士の参禅は、禅宗が一つの完成した姿を現出した唐代に先例があったが、宋代以後、その比重は徐々に増していった。北宋の王安石・蘇軾・蘇轍・黄庭堅、南宋末の張即之、元の馮子振などの士大夫の参禅が知られる。科挙官僚の担い手となった士大夫に共通の教養は儒教であったが、当時の儒教は科挙に及第するための道具に過ぎず魅力がなかった。士大夫階級の哲学的欲求を満足させたのが禅宗であり、この新たな支持層を得たことにより、さらに名僧が輩出するという好循環を生んだ。また禅宗の権威の確立とともに、禅籍の刊行が行われるようになり、その出版による禅籍の流布は、禅宗が広く社会に浸透していった原動力の一つであったといえる。

士大夫が参禅した例として、蘇軾が黄龍派の東林常総から印可を受け、黄庭堅も同派の晦堂祖心の法を嗣いだ。張即之は禅に造詣が深く、大慧派の無文道璨らと交際した。馮子振も禅学に心を寄せ、元代禅林の巨頭・中峰明本や古林清茂らと親しく交わった。また趙孟頫も熱心な仏教信者で、中峰明本を師と仰いで親密な交流があり、松源派の独孤淳朋や馮子振とも親交が深かった。

墨跡の変化
『伏波神祠詩巻』(黄庭堅筆、永青文庫蔵、重文)

このような詩・書・画を能くした文化人の参禅は、芸術重視という禅の世俗化をもたらした。士大夫の才能が僧侶においても尊敬されるべき対象となったのである。その影響は墨跡にも見られ、北宋末以後、蘇軾・黄庭堅・張即之の書風が禅僧の間に流行した。特に黄庭堅の書の影響は大きく、無学祖元など黄庭堅風のものが多くみられる。また竺仙梵僊は蘇軾の、蘭渓道隆は張即之の、了庵清欲は趙孟頫の影響を色濃く受けている[3][12][16][17][24][30][31][32][33][34][35][36][37][38][39]。

日本(鎌倉時代)

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