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ロアノーク植民地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ロアノーク植民地
Roanoke Colony
ジョン・ホワイトによるロアノーク地域図、中央右寄りの小さな島がロアノーク島
公用語英語
指示者イングランド、ウォルター・ローリー
状態植民地
設立 - 解消1585年 - 不明

ロアノーク植民地(ロアノークしょくみんち、英: Roanoke Colony)は、現在のアメリカ合衆国ノースカロライナ州デア郡のロアノーク島にあった植民地。

ロアノーク植民地はウォルター・ローリーにより出資、組織化された殖民事業である。バージニア植民地内に恒久的開拓地を設立するために、16世紀後半に、ラルフ・レーンとリチャード・グレンビル(ローリーの従兄弟)によって実行された。1585年から1587年にかけて数度の植民地建設が試みられたが、どれも放棄されるか開拓者が死亡するかした。最後の100名余の開拓者集団は、おりからの英西戦争のためにイングランドからの補給がないまま3年が経過した後に全員姿を消していることが確認された。

ローリーが得た植民地建設の権利

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ウォルター・ローリー

ウォルター・ローリーはイングランド女王エリザベス1世からバージニアと呼ばれる北アメリカの地に植民地を建設する勅許を取得していた。この勅許ではローリーが10年以内に北アメリカに開拓地を建設することを求め、それができなければ権利は消失することを定めていた。ローリーと女王は、この事業で新世界から富を引き出し、スペインの宝物を積んだ艦隊に対して私掠船を送って襲撃させる基地を得ることを目指していた。ローリー自身は北アメリカを訪れることは無かったが、1595年と1617年には、南アメリカはオリノコ川流域の湿地で伝説のエル・ドラードを探す遠征隊を率いていた。

探検

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1584年、ローリーは北アメリカの東海岸で適切な開拓地を探検するために遠征隊を派遣した。この遠征隊はフィリップ・アマダスとアーサー・バーローが指揮し、現在のノースカロライナ州アウターバンクスを選んだ。そこからは南に開拓地を持つスペインを襲うことができ、先住民族であるカロライナ・アルゴンキン族のクロアタン族と接触することもできる理想的な位置にあった。

最初の開拓者

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翌年春、男性のみで構成された植民を目的とした遠征隊が派遣された。彼らの多くはアイルランドにイングランドの支配を打ち立てた古参兵であり、現地で貴金属を探し、先住民の銅精錬技術を解き明かす目的があった。指導者のリチャード・グレンビルはこの地域をさらに探検し、植民地を建設し、事業の成功の報せを持ってイングランドに戻る任務を割り当てられた。先導船がアウターバンクスに到着したときに浅瀬に乗り上げ、おそらく食料の大半が失われたために植民地建設は延期された。最初に本土海岸や地域の先住民集落を探検した後、アクアスコゴック族集落のインディアンから銀のカップを盗んだという疑いをかけられた。この報復のために、訪問した最後の集落を略奪して燃やし、その酋長を火あぶりの刑にした。

この事件や食料の欠乏もあり、グレンビルはラルフ・レーンと約75人の隊員を残してロアノーク島の北端に植民地を建設することを決断し、翌1586年4月にはさらに人と物資を運んで戻ってくることを約束した。グレンビルたちは1585年8月17日に出航した[1]。

翌年4月が過ぎてもグレンビルの救援隊がやってくる気配は無かった。植民地は6月になっても存在しており、このときフランシス・ドレーク卿がカリブ海で襲撃を成功させた後の帰国中に立ち寄り、植民者達にイングランドに連れて行く提案を行った。金属学者のヨアヒム・ガンスを含む植民者達はこの申し出を受け入れた。グレンビルの救援隊はドレークが植民者達を乗せて立ち去った後まもなく到着した。植民地が放棄されているのを発見したグレンビルは、部隊の大半を連れてイングランドに戻ったが、イングランドの駐留と、ローリーのバージニアに対する権益の保護の双方を維持するために少数の分遣隊を残した。

第二の開拓者

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1587年、ローリーは新たに117人の植民者遠征隊を派遣した。この隊を指揮したジョン・ホワイトは芸術家でローリーの友人であり、先のロアノーク島への遠征にも同行していた。

開拓者集団は1587年7月22日にロアノーク島に上陸した。8月18日、ホワイトの娘エレノアがアメリカ大陸では初となるイングランド人の赤ん坊ヴァージニア・デアを出産した。この出産のまえにホワイトは近隣にいるクロアタン族との関係を再構築し、前年ラルフ・レーンが攻撃した部族との関係を修復しようとした。しかし不満を感じていた部族は新しい植民者達との会見を拒んだ。それから間もなく、ジョージ・ハウという植民者が一人アルベマール・サウンド(海峡)でカニを探しているときに先住民に殺された。植民者達はラルフ・レーンが隊長を務めていたときに起こった事を知って、自分たちの生命が脅かされていることを恐れ、ホワイト知事にイングランドへ戻り植民地の事情を説明し援助を求めるよう説得した。ホワイトがイングランドに向けて出発したとき、植民地には115人の男女植民者が残った。この中には生まれたばかりのヴァージニアも含まれていた。

ホワイトが航海した当時の大西洋横断は大変危険なものだった。水先案内人のサイモン・フェルナンデスはその船がやっとのことでイングランドに戻ったと記している。救援隊の計画が立てられたが、冬季に船を出すことを船長が拒んだために遅れた。さらにスペインの無敵艦隊が来たことで、イングランドのあらゆる戦闘可能な船舶が徴発されたため、ホワイトはロアノーク島へ帰還するに耐え得る船舶を失った。しかし、ホワイトは防衛に不要と考えられる小さな船2隻を何とか誂え、1588年春にロアノーク島に向けて出航した。この航海は人為的な事情でうまくいかなかった。2隻の船は小さくその船長たちは貪欲だった。彼らはその航海の収益を良くするために行きがけに幾隻かのスペイン船を捕獲しようとしたが、逆に彼らが捉えられて積荷が失われた。植民地に運ぶもののなくなった船長たちはイングランドに戻った。

スペインとの戦争が続いていた(英西戦争 (1585年))ために、ホワイトはその後3年間再び補給を試みることができなかった。ようやく私掠船の遠征隊に乗って、カリブ海からの帰り道にロアノーク島沖に立ち寄る約束を取り付けた。ホワイトはその孫娘の3歳の誕生日である1590年8月18日にロアノーク島に上陸したが、開拓地は荒廃していた。その隊員たちも男90人、女17人、子供11人の植民者達の形跡を見つけられず、戦闘が行われたような兆候も無かった。数少ない手がかりといえば、砦の柱に彫られた「クロアトアン(CROATOAN)」という言葉と、近くの木に彫り付けられた「クロ(CRO)」という言葉だった。家屋や防御工作物は全て解体されており、出発が急いで行われたのではないことが示されていた。ホワイトは3年前に出発するとき、何かことが起こった場合、近くの木にマルタ十字を彫るよう指示していたが、それは植民者達が強制されて出発したことを意味していた。十字架が彫られていなかったため、ホワイトは彫られた文字は植民者達がクロアトアン島に移動したことを意味していると解釈したが、彼は探索することが出来なかった。猛烈な嵐が起こりつつあり、隊員はそれ以上の探索を拒み、翌日彼らはその地を離れた。

ロアノーク植民地消失に関する仮説

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1587年植民地の終末は記録されておらず(「失われた植民地」と呼ばれるようになった)、植民者達の運命については様々な憶測が生まれた。主流となった仮説は、飢餓に陥った彼らが地元のクロアタン族、あるいはハッテラス族、あるいはほかのアルゴンキン族インディアンといった比較的友好的な先住民の中に分散し吸収されたというものである[2][3]。とはいえ彼らが先住民と同化できたかどうかについての確たる証拠はまだない。

タスカローラ

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F・ロイ・ジョンソンの著作『事実と伝説の中の失われた植民地』で、共著者のトマス・C・パラモアは次のように書いている。

...1610年頃までタスカローラ族の国で失われた植民者達の一部が生きていたという証拠は印象的である。1608年にジェームズタウンの開拓者フランシス・ネルソンが描いた現在のノースカロライナ州内陸部の地図は、このことのもっとも雄弁な証拠である。いわゆる「ズニガ地図」[4]と呼ばれるこの図は、ニューズ川沿いイロコイ族のパケリウキニック集落で「ルーノックから来た4人の服を着た男たち」がまだ生きていることを報告している。1609年のロンドンでは、「ゲパノカン」と呼ばれる酋長の下で、明らかにパケリウキニック集落で生活しているロアノークから来たイングランド人に関する報告がある。ゲパノカンはロアノークから来た4人の男、2人の少年「および1人の若いメイド」(おそらくヴァージニア・デア)を銅の作業者として抱えていたと言われていた。