モンタサン
| モンタサン | |
|---|---|
| 現役期間 | 1966年 - 1970年 |
| 欧字表記 | Monta Son |
| 品種 | サラブレッド |
| 性別 | 牡 |
| 毛色 | 栗毛 |
| 生誕 | 1964年5月30日 |
| 父 | モンタヴアル |
| 母 | リユウリキ |
| 母の父 | ヒカルメイジ |
| 生国 |
|
| 生産者 | 石井彌蔵 |
| 馬主 | 古知政市 |
| 調教師 | 矢野幸夫(中山) |
| 競走成績 | |
| 生涯成績 | 27戦12勝 |
| 獲得賞金 | 5303万5600円[1] |
モンタサンは1960年代後半に中央競馬で走った日本の競走馬。モンタヴァルを父に持つ血統とクラシック三冠での一連の経緯から「不運の名馬」と呼ばれた[2]。
来歴
[編集]1966年デビュー。6戦目となる朝日盃3歳ステークスにレコードタイムで優勝し、啓衆賞の最良3歳牡馬を受賞。
1967年春、クラシック三冠を前にオープン競走に出走し、京成杯と東京4歳ステークスを連勝してきたホウゲツオーを相手に勝利。しかし長引く馬丁ストライキの最中に体調を崩し[3]、皐月賞と東京優駿ではともに単勝4番人気に推されたが敗退。北海道で馬主の知人から脊椎の治療を受けて復調し[4]、セントライト記念でニツトエイトを2分の1馬身抑えレコードタイムで優勝。その5日後の10月6日、菊花賞に向けて京都競馬場に移動した[5]が、10月11日夜[5]、飼料に付着していた農薬にあたり激しい下痢と熱発を起こし[5]、出走を断念[3]。
1968年にオープン競走を3連勝。このうち6月に行われた東京競馬場スタンド新築記念(芝2000メートル)は、特別競走ながら重賞に匹敵する賞金(1着600万円)が設定されていた。1969年2月には不良馬場で行われた京王盃スプリングハンデキャップで優勝。天皇賞・春を目指したが、軽い捻挫のため出走を回避[6]。
27戦して重賞3勝を含む12勝を挙げ、レコードタイムを複数回記録した一方で、2着が7回あった。八大競走では1968年の有馬記念で4着となった以外はふるわなかった。
特徴
[編集]気性が悪く、担当厩務員によれば「調子が狂い出すと白い歯を見せて食ってかかる」[7]。1969年の日本経済賞(2着)では2コーナー過ぎで急に後退した(日本経済新聞記者の小堀孝二は「バカツキ」と表現している[8])が、主戦騎手だった油木宣夫によればこれは「いつもの悪い癖」が出たためだという[8]。ゴール近くになると気を抜く面を持っていた[9]。油木は京王盃スプリングハンデキャップ後のインタビューで「自在の脚質だけれど先行した方が安心できる」と述べている[10]。
人気面
[編集]ラジオ関東アナウンサーの窪田康夫は、雑誌『優駿』に寄稿したセントライト記念の観戦記で本馬のファンについて「一種異常なまでの打ち込み方」「ファンというよりも信者といった方がぴったりくるような声援の送り方」とその熱狂ぶりを記している[11]。彼らは「モンタサン党」とも称された[12]。
著名人にも熱心なファンがいた。寺山修司は『優駿』誌上で本馬を幾度も話題に取り上げ、1968年の有馬記念においても本馬の優勝を予想した[13]。大橋巨泉は寺山の死に際してサンケイスポーツのコラムで寺山とともに“惚れた”馬として本馬の名を挙げ、本馬が出走した東京優駿当日のエピソードを記した[14]。
血統表
[編集]| (ブランドフォード系 / Blandford4×5=9.38%) | |||
父 *モンタヴアルMontaval 1953 鹿毛 |
父の父 Norseman1940 鹿毛 |
Umidwar | Blandford |
| Uganda | |||
| Tara | Teddy | ||
| Jean Gow | |||
父の母 Ballynash1946 鹿毛 |
Nasrullah | Nearco | |
| Mumtaz Begum | |||
| Ballywellbroke | Ballyferis | ||
| The Beggar | |||
母 リユウリキ1959 鹿毛 |
ヒカルメイジ 1954 黒鹿毛 |
Bois Roussel | Vatout |
| Plucky Liege | |||
| *イサベリーン | Canon Law | ||
| Legal Tender | |||
母の母 ヤマトチカラ1953 鹿毛 |
クモハタ | トウルヌソル | |
| 星旗 | |||
| ヤマトナデシコ | プリメロ | ||
| オーグメント | |||