パヴェル・ヨゼフ・シャファーリク
|
| |
| 人物情報 | |
|---|---|
| 全名 | Safáry, Schaffáry, Schafary, Saf(f)arik, Šafarík, Szafarzik, Pavel Josef Šafařík, Paul Joseph Schaffarik, Paulus Josephus Schaffarik, Pál József Safarik, Paweł Józef Szafarzyk |
| 生誕 | 1795年5月13日 |
| 死没 | 1861年6月26日(66歳没) |
| 学問 | |
パヴォル・ヨゼフ・シャファーリク ( スロバキア語: Pavol Jozef Šafáríkまたはパヴェル・ヨゼフ・シャファジーク(チェコ語: Pavel Josef Šafařík ); 1795年5月13日 - 1861年6月26日)は、スロバキアの牧師、文献学者、歴史家。19世紀前半、民族再生期のチェコ人、スロヴァキア人の運動を率いた[1]。
ドイツ語でPaul Joseph Schaffarik、ラテン語でPaulus Josephus Schaffarik、ハンガリー語でPál József Safarikと、それぞれ表記される場合もある。
略歴
[編集]ハプスブルク君主国のハンガリー王国北部(上部ハンガリー)にある小村(現在はスロバキア)に生まれる。父親はプロテスタントの牧師で元教師、母親は下級貴族の出身。 1815年にドイツのイェーナ大学に入学[2]。歴史、言語学、哲学、自然科学などを学ぶ傍ら、ヘルダーやフィヒテを研究した。
1817年に故郷へ帰還する途上でプラハに滞在し、当地の文学サークルに参加して多岐にわたる人物と知り合った。1817年から1819年までプレスブルク(ポジョニ)で家庭教師として教える。その後1819年から1833年まで、ヴォイヴォディナのノヴィ・サド(現:セルビア)にあるセルビア正教系のギムナジウムで教師及び校長を務める。このころセルビア文学を研究。
1833年に校長を辞任してプラハへ移り、歴史、文献、言語、文化、民族の研究を続ける。1848年革命のさなか、6月に開かれたスラブ人会議に副議長として参加し、議長フランティシェク・パラツキーとともにスラヴ人の共闘に向けて議論を主導する[3]。プラハ大学で文献学の教鞭を執るが、翌年辞職。
晩年は精神に変調をきたし、橋の上からヴルタヴァ川に飛び込むなど幾多の自殺未遂を繰り返し、1861年にプラハで死を迎えた[4]。
著作
[編集]- Promluvení k Slovanům
- Počátkové českého básnictví, obzvláště prozodie
- Novi Graeci non uniti ritus gymnasii
- Písně světské lidu slovenského v Uhřích.
- Geschichte der slawischen Sprache und Literatur nach allen Mundarten
出典
[編集]- ↑ 稲野 2015, p. 201.
- ↑ “Österreichisches Biographisches Lexikon”. 2016年7月18日閲覧。
- ↑ 稲野 1979, p. 313.
- ↑ “Biografické kalendárium”. 2014年9月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年7月18日閲覧。
参考文献
[編集]外部リンク
[編集]- セルビアのノヴィ・サドにあるスロバキア文化センター セルビア語 スロバキア語