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バハオラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(バハーウッラーから転送)
バハオラ
バハオラ
個人情報
生誕
ミールザー・フサイン・アリー・ヌーリー

1817年11月12日
死没 1892年5月29日
アッカ、オスマン帝国(現在のイスラエル)
墓所 バハオラの霊廟
北緯32度56分36秒 東経35度05分32秒 / 北緯32.94333度 東経35.09222度 / 32.94333; 35.09222
国籍 ペルシア
配偶者 アーシーヤ・ハーヌム
子供 アブドル・バハ、バヒーヤ・ハーヌム、ミールザー・ミフディー、カーゼム、ムハンマド・アリー
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バハイ信教の創始者であるバハオラ(1817年11月12日 - 1892年5月29日)は、現代の神の顕示者であると信徒から見なされている。現在ではイランと呼ばれているペルシアの名家に生まれ、バーブ教を信奉したために追放処分を受けた。自らが神の顕示者であることを、イラクで1863年に初めて宣言し、その後の生涯をオスマン帝国内でのさらなる追放処分と監禁の中で過ごした。和合と、宗教は時代を追って刷新されていくという原則を中心に据える彼の教えは、道徳的・霊的進歩の方法から、グローバル・ガバナンスに至るまでを包含している[1]。

バハオラは正式な学校教育を受けずに育ったものの、生まれ持っての知識を備え、宗教心に篤かった。彼の一族は、マザンダラン州のヌール地方(カスピ海南岸をなす地域)を出自とする。ヌールの名家は、徴税人、軍の会計官、書記官などとしてテヘランの政府に仕えるのが習わしであった。バハオラの父ミールザー・アッバース・ヌーリーは大臣職に就いていたことから[2] 、かなり裕福な暮らしを一家は享受していた。バハオラは、22歳のときに父の官職を継ぐよう宮廷から命じられたが、辞退した。代わりに家財の管理にあたり、持てる時間と資財を慈善活動に捧げた[3] 。新しい宗教運動を興すことになったバブの宣言を受け入れ、最も熱心な布教者の一人となったのは、27歳のときだった。しかし、イスラム法をもはや無効と見なすバブの運動は、大きな反発を招いた。政府はこれを廃絶しようとして激しく弾圧を行った。この中で、バハオラはかろうじて死を免れたものの、財産は没収され、イランから33歳のときに追放された。バハオラは、国外追放の処分を受ける少し前、シヤー・チャールの地下牢に投獄され、この投獄期間に神からの啓示を受け、ここから、聖なる使命が始まった、と後に述懐している。しかし追放先の[4] イラクでも、大勢がバハオラを受け入れたため、イラン当局の怒りに再び火が着いた。当局の要請を受け、トルコ政府はバハオラをコンスタンティノープルに追放した。しかし、バハオラがこの地で過ごした数か月の間、大勢が彼をやはり受け入れたことで、今度はトルコ政府の敵視を招いた。政府は、アドリアノープルで4年間の軟禁生活を彼に送らせた後に、監獄都市アッコで2年間の苛烈な監禁生活に押し込めた。だが次第に、制限は緩和され、バハオラは晩年にはアッカ周辺で比較的自由な生活を送れるようになった。彼は生涯を通じて、幾多の艱難と迫害に耐えた。その多くは、ムッラーたちがめぐらした陰謀によるものだった[2] 。バハオラは、書簡の一つで、神の顕示者はこのような苦難を常なる現実として耐え忍ぶものであると明言している。

古来の美が鎖に繋がれることに同意したのは、人類がその束縛から解放されるためであり、この最も強固な砦の囚人となることに甘んじたのは全世界が真の自由に達するようにするためである。古来の美は、地上のすべての人々が永遠の喜びを得て歓喜に満たされるよう悲哀の杯を飲み干したのである。これは汝らの主の慈悲である。彼こそは憐れみ深く、最も慈悲深き御方におわす。おお、神の一体性を信ずるものらよ。われは、汝らが高められるようにと卑しめられることを受け入れ、汝らが繁栄するようにと無数の苦悩に耐えるのである。全世界の再建のために到来した彼のおかれた状況を見よ。自らを神の協同者と称するものらによって、彼は最も荒廃した都市に住むことを強いられたのである[5]。

バハオラは少なくとも1,500通の書簡を著した。一部は書物ほどの量になり、少なくとも802の言語に翻訳されている。代表的な著作に『かくされた言葉』『確信の書』『ケタベ・アグダス』がある。神の本質や魂の進歩といった神秘的主題を扱った教えがあれば、社会で必要とされるものや、信徒の宗教的義務、あるいは彼が創設したバハイ信教を広める機構に関する教えもある[6]。バハオラは人間を根本的に霊的な存在と見なし、聖なる資質を培い、社会の物質的・霊的繁栄を推進させるよう、個々人に呼びかけている[7]。

バハオラは晩年をバージで過ごした。執筆に主として専念するなかで、この地に居住する信徒や、数を増やし続けながら遠くから来訪する信者と時折会見した。ハイファ、レズワン庭園、その他近隣のいくつかの場所へ出向くこともあった。1892年5月29日、数日間の病の後に逝去すると、その遺体はバージーの邸宅の近くの建物に埋葬された[2] 。その墓所は、現在236の国と地域に居住する、バハイと呼ばれる彼の信徒の巡礼地となっている。バハイは、バハオラを、クリシュナ、釈迦、イエス・キリスト、ムハンマドなどに連なる神の顕示者であると見なしている[8]。

生い立ち

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バージにあるバハイ信教の聖地

バハオラとは、アラビア語で「神の栄光」を意味する称号である。本名をフサイン・アリーといい、1817年11月12日にイランのテヘランで生まれた。彼の父、ミールザー・アッバース・ヌーリー(通称ミルザー・ブズルグ[9])は裕福な政府高官であり、ファトフ・アリー・シャーの第12子イマーム=ヴィルディ・ミールザーの宰相を務めていた。母はハディジェ・ハーヌムという名であった[10]。一家は、イランの王家の偉大な諸王朝に連なる系譜の末裔であり、歴史家たちは、彼の系譜は、ケトゥラ[11]およびサラを通じてアブラハムに遡り、預言者ゾロアスター、ダビデ王の父であるエッサイ、そしてサーサーン朝最後の王ヤズデギルド3世[9]に連なるとしている。

バハオラは若い頃、王侯のような生活を送り、書道、乗馬、古典詩、剣術に重点を置く教育を主に受け、1835年、18歳のときに、テヘランの貴族の子女であった15歳のアーシーイェ・ハーヌムと結婚した[12] 。バハオラは、自らの高貴な家系に由来する特権的な生活を20代初めに捨て、資産と時間を数多くの慈善活動に捧げた。このため、彼は「貧者の父」と呼ばれるようになった[3]。

バブの宗教とその受け入れ

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1844年5月、シーラーズの24歳の商人セイイェド・アリー・モハンマドは、自らをイスラム教の約束された者(カーイムまたはマフディー)であると主張しただけでなく、神から新たに遣わされた使者であると宣言したことで、イラン全土に大きな衝撃を与えた[8]。彼は自らの立場が、神の知識への霊的な「門」であってかつ、到来が差し迫る、神から遣わされたさらに偉大な教師の先駆者であることを示すものとして、「バブ」(アラビア語で「門」を意味する)という称号を名乗った[13]。

バハイの巡礼地の一つであり、聖地であるバブの聖廟

バブは、自らの霊的使命をムッラー・フサインに宣言した直後、神の導きで彼が出会うはずの人物に宛てた特別な書状を託し、彼をテヘランに向かわせた。知人を通じてバハオラのことを知ったムッラー・フサインは、その手紙をバハオラに届けるべきだと確信した。そしてこのことを、バブに書き送ると、バブはその知らせを大いに喜ばれた[14] 。この書状を27歳のときに受け取ったバハオラは、バブのメッセージが真実であることを直ちに認め、人々に伝えるために立ち上がった[12] 。故郷ヌール地方の著名人であったバハオラには、バブの教えを伝える機会が多くもたらされた。そして足を向ける先々で、イスラム教聖職者を含む、多くの人々をこの新たな宗教へ惹きつけた[15] 。テヘランの彼の邸宅は諸活動の中心地となり、彼はバブが創設したこの宗教のために惜しみなく経済的支援を提供した[16] 。1848年の夏、バハオラはホラサーン州のバダシュトで22日間にわたり84人のバーブ教徒が集まる会合を主催し、自ら出席した。このバダシュトで、彼は「バハー」(「栄光」「光輝」を意味する。バハオラは「神の栄光」を意味する)という称号を名乗り[17] 、出席者全員に象徴的な新たな名前を与えた。バブはこの後、会合で弟子たちに与えられた名前で呼びかけるようにして彼ら一人ひとりに書簡を送った。この会合の後、バブの女性信徒の中で最も著名なタヘレが逮捕されると、バハオラは彼女を擁護するために当局との間で奔走した。そのために一時的に投獄され、足の裏を鞭で叩かれる刑罰を受けた[18]。

バーブ教はペルシアで急速に広まり、その信徒の数は急激に増加した。その結果、宗教的権威とそれに伴う利益を失うことへの恐れから危機感を抱いたイスラームの宗教指導者(ウラマー)による反対を全土で招いた。また、バーブ教共同体の影響力拡大に不安を抱いた行政当局者からの反対にも直面した[19]。その結果として起こった執拗な迫害により、数千人のバーブ教徒が殺害された。1850年7月、バブはタブリーズで銃殺隊の集中発砲により30歳で殉教した[20]。

バブは自らの教えの中で、自らは、恒久的な平和への道を開くために創造主から遣わされた二人の顕示者のうち、最初の者であり、二人目によって、人類が成熟期を迎え、すべての人が一つの家族として和合のうちに暮らすようになると述べている[21]。バハイは、バブの教えが「諸国の和合、宗教間の友好関係、万人の平等な権利、そして慈愛に満ち、協議で意思決定がなされ、寛容で、民主的かつ倫理的な世界秩序を特徴とする社会の最終的な確立」のための基盤を築いたと信じている[22]。バブの教えの中には、彼がその到来に向けて準備をしていた大いなる約束された御方である「神が顕現なし給う御方」への言及がある[23]。バブは、数多くの予言において、自らの殉教後ほどなくして、神から遣わされた次の教師が出現すると明言した[24]。バブは、主要な著作の一つにおいて、次のように述べている。「バハオラの秩序に目を据え、主に感謝を捧げる者は幸いである。」[25]

投獄

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バブの殉教に至るまでと、その後の出来事は、バーブ教徒には激動的な展開だった。イスラム教指導者たちが熱狂した群衆を扇動し暴力に駆り立てたが、多くのバーブ教徒は反撃を拒んだ。代わりに自衛手段を講じた[26]ものの、その多くが殺害された。1852年8月15日、2人の若いバーブ教徒が、バブと、名が知れた弟子たちが殺害されたことへの報復として、イランのシャー(国王)の暗殺を試みた。2人は、公道を進んでいたナーセロッディーン・シャーの前に姿を現すと、銃を発砲した。国王は負傷をしたものの重傷には至らなかった。だがこの事件を契機に、過去の事例をはるかに凌駕するバーブ教徒への迫害が開始したのである[27] 。シャーがバーブ教徒の大虐殺を命じたことで、テヘランでバーブ教徒として知られていた者すべてが逮捕された[2]。バハオラも、姉を訪ねるためにテヘランへ向かう途中で逮捕された。

調査の結果、犯行に及んだ若者たちは単独で行動を起こしていたことが判明したが、政府の大臣らは飽き足らず、バーブ教徒であることが既知の、またはそう疑われる市民の処罰を競い合うかのように進めた。そのため、同年だけで少なくとも1万人のバーブ教徒が殺害される「恐怖政治」が引き起こされた[28]。処罰された者の中にはバハオラもいた。バハオラは、バーブ教を擁護していることが周知されていたことで逮捕され、テヘランの地下牢、シーヤ・チャール(「黒い穴」)に投獄された。生涯消えない傷跡を残すほどの重い鎖で彼が4か月にわたって拘束されていた間、シャーの母や王党派の高官たちは彼を処刑する方法を模索した[29]。

神の啓示

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バハオラは、この黒い地下牢に4か月間投獄されていた間、自身が体験した霊的体験を、後に著作の中で記し、自らの宗教的使命の発端であったと位置づけている。1852年10月のある期間にわたって起こったとみられるこの体験は、さまざまな角度から描写されている。天の乙女が出現し、天から自らを呼ぶ声を聞き、頭頂から胸へと力強い奔流のようなものが流れ降り、四肢が燃え上がった。それは、バブに続くと約束された顕示者としての彼の使命を告げる声であった[4]。

バハイは、バハオラの霊的使命の到来を、バブの時代になされた「神が顕現させる者」に関する予言が成就する始まりとみなす[30] 。バブとバハオラという一対の顕示者は本質的に「切り離せず」[23]、調和し和合しているゆえに、バハイはこの二つの宗教を完結した単一の宗教として捉えている。そのため、1844年のバブの宣言からバハイ信教は開始したとみなされている。

追放

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真冬の旅路の挿絵

シャーの暗殺未遂事件への関与について、バハオラが紛れもなく無実であることが証明されると[28]、シャーは最終的に彼の釈放に同意したが、バハオラをペルシアから永久に追放することを条件とした[31]。広大な土地と財産を奪われたバハオラは、厳冬の1853年1月に、バグダードを行き先とする3か月間の旅に家族とともに出立した。こうして彼は、その後の生涯をオスマン帝国領内での追放に次ぐ追放のなかで送ることになった。真冬の高山越えは、バハオラにも彼の家族にも難儀を強いた[32]

バハオラは、この追放生活のなかで、イラクのバグダードからイスタンブール(コンスタンティノープル)へ、さらにアドリアノープル(エディルネ)を経て、最終的にはアッカへと移った。しかも、この追放には社会的立場の変化も伴われた。バハオラは、宮廷で高い尊敬を得る高官の身分から囚人へと社会から疎外された存在へと貶められたのである[32] 。バハオラ自身は、これらの出来事の精神的側面について次のように述べている。「古来の美が鎖に繋がれることに同意したのは、人類がその束縛から解放されるためであり、この最も強固な砦の囚人となることに甘んじたのは全世界が真の自由に達するようにするためである。」[5]

バグダード

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バハオラは1853年3月にバグダードに到着し、バグダード郊外の小さな町カエミヤーン(Qaemiyan)でしばらく過ごしたのち、チグリス川西岸のカルフ地区に家を借りた[2] 。バグダードに落ち着くと、ペルシアで迫害され疲弊しているバーブ教の信徒たちを励まし活気を取り戻させるために書簡を送り、教師たちを派遣し始めた。時が経つにつれ、バハオラの近くで侍ろうと、多くのバーブ教徒がバグダードへ移り住んだ。その一人が、のちにスブフ・イ・アザルと呼ばれるミルザ・ヤーヤであった。バハオラより13歳年下の異母弟であったヤーヤは、彼に従ってバーブ教に入信し、萌芽期にあったバーブ教を護り、かつ、広めるため、彼に随伴し、方々に出かけることさえあった。父の死後、ヤーヤの教育と養育はバハオラが主に担っていた[33]。バハオラがシーヤーチャールに投獄されていた間、ヤーヤは身を隠していたが、バハオラがイラクへ追放されると、変装してイランを発ち、バグダードへ向かった[34]。

しばらくの間、ヤーヤはバグダードでバハオラの秘書として仕えたものの、バーブ教徒の間でバハオラへの敬慕の念が高まっていくことへの嫉妬から、自分の地位を高め、教団を率いんとする野心を抱くようになった[35][36]。そこで、支持者の一部と結託し、自分がまだ十代だった数年前にバブが記した書簡を持ち出すと、その中で「神が顕現し給う御方」が現れるまでの名目的な指導者として自分の名が挙げられている、と主張した。その書簡は自分がバブの後継者に実際に任命されたことを意味するものである、と言い張ったのである。書簡の内容に通じたバーブ教徒たちは、引用された書簡にはそのような地位は明記されていないこと、そして、バブが自らの宗教においては「後継制度」を他の著作で明白に廃止している[37]ことを根拠に、ヤーヤの大胆な主張を即座に退けた。またバブは、約束された「神が顕現し給う御方」が出現するまでは、誰が何を言おうとも、信徒を拘束することはないと定めていた[37]。しかも、いまや高い地位を主張しているにもかかわらず、ヤーヤはバーブ教とその信徒の生命を守るための措置をこれまで何一つ取ってこなかったことを指摘し、その動機に疑問を呈する者もいた[38][39]。ヤーヤはそれでも引き下がらなかった。虚偽の噂や非難の言葉を広めてバハオラを貶め、バグダードのバーブ教徒の間でバハオラへの疑念を煽り立てた。

バハオラは、バーブ教徒の間に生じた対立を目の当たりにして心を痛めた。不和のうちに神の大業は成し得ないと考え、その地を離れる決心をした。バグダード到着から約1年後、行き先も連絡手段も誰にも告げずに突然姿をくらました。ただ一人の同行者とともに、バグダード北方のクルディスタンの山々へ向かうと、スーフィーのダルヴィーシュのように洞窟に隠棲し孤独のうちに日々を過ごした。この地域のクルド人の多くは、宗教上の指導をスーフィーのシャイフに仰いでいた。そのうちの一人がバハオラのことを知り、彼の霊的洞察を評価するようになった。バハオラは、イラク・クルディスタンの主要都市スレイマニヤで開かれるスーフィーの集会に招かれると、そこに集まったスーフィーの信徒たちに教えを授けるよう求められた[40] 。 

スレイマーニーヤでの生活とバグダードへの帰還

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後年、自らがバーブ教徒共同体の不和の原因となることを望まない旨をある文書の中で記した [41][42]ように、バハオラは当初、山々の中で隠者として暮らしていた。そのような日々の中、ダルヴィーシュの装いをし、「ダルヴィーシュ・ムハンマド・イーラーニー」と自称していた[41] バハオラに、スレイマーニーヤで著名な神学校の校長が偶然出会い[43]、彼を学校に招待した。ある学生がバハオラが書く文章の卓越性に気づくと、指導教官である学者たちの好奇心をそそった。バハオラが宗教上の複雑なテーマについて彼らからの質問に答えていくと、その深い教養と英知に対し、称賛が瞬く間に集まった[44]。スーフィーには、ナクシュバンディーヤ、カーディリーヤ、ハーリディーヤという教団がある。その各々の指導者、すなわちシャイフ・ウスマーン、シャイフ・アブドゥルラフマーン、シャイフ・イスマーイルが、彼の助言を次第に求めるようになった。バハオラはこの時期に『四つの谷』を著している[45]。

クルディスタンの山々

バハオラがバグダードのバーブ教徒共同体から離れている間、ミルザ・ヤーヤの本性はいよいよ露わになっていた。日々の生活でバブが説いていた高い規範を示すことも、精神的指導もできなかったため、共同体に対する市民一般からの敬意はほどなくして失われた。バーブ教徒の堅固だった道徳心は瓦解した。ヤーヤはそれらを憂うどころか、バハオラや彼を称賛する人々を貶めんとする取り組みに熱を入れた。同時に、自らに箔を付け、その偽りの地位を高めんとして、バーブ教を利用した。恥ず知らずにもバブの教えに反していようと、目的を果たすためには手段を選ばなかったのである[46]。そんなヤーヤに対する不信がバーブ教徒の間で次第に高まり、バハオラの導きを求める思いが強まっていった。やがて、バグダードのバーブ教徒にバハオラの所在情報が伝わり、2人がスレイマーニーヤへ赴いて彼を連れ戻すことになった。バハオラは当初、自らが受容され、心に平安をもたらしたスレイマーニーヤから離れることに気が進まなかった。実際、後年の著述では、バグダードを去ったときには戻る意図はなかったと記している。しかし、バグダードのバーブ教徒共同体の凋落した状況を聞くと、自らが介入しなければ、あの甚大な犠牲とバブの殉教がすべて無に帰すると感じたのである。こうして、戻ることに同意した[32][40]。バハオラは、スレイマーニーヤでのほぼ2年に及ぶ隠棲の日々の後の1856年3月19日、バグダードに戻った[41]。

バハオラは戻るやいなや、バーブ教徒の共同体の名誉と威信の回復にただちに取り掛かり、その士気と結束を立て直し始めた。最も重要な論証の書である『ケタベ・イガン(確信の書)』や、『七つの谷』『かくされた言葉』という神秘に満ちた著作、そして多くの詩など、いくつかの主要な作品を著した[2]。そしてその後の7年間、自ら模範を示し、励まし、そして継続的な交流を通して、「バブの存命中に共同体が到達していた道徳的・霊的水準へと共同体を回帰させた」のである。活気を取り戻したバーブ運動に加わる人々の数は増加していった[41]。バグダードとその周辺地域でバハオラの名声が広まり、著作がよりいっそう広く行き渡るに伴い、「王族、学者、神秘家、政府高官」たちが引き寄せられるようにして彼との会見を求めた。その多くは「ペルシアの公共生活の指導的人物」であった[47][43]。しかし、このように展開していったことで、従来からの反対勢力であるイランのイスラム教聖職者を動揺させ、イランの君主とその側近の間に再び「強い恐怖と疑念」を高めることになった[47]。

イラン政府はバハオラを本国に引き渡すようオスマン帝国政府に要請したが、拒否された。そこで今度は、イランとの国境に近いバグダードから彼を追放するよう、強く要請した[40]。

イスタンブール(コンスタンティノープル)への招請とバハオラの宣言

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1863年3月、バハオラは、オスマン帝国の政府から、帝国の首都イスタンブールに移るよう命を受けた。スルタンのアブデュルアズィズ自らが、帝国の首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)に居住するよう彼を招いたのである[48]。1863年4月22日、バハオラはバグダードの自邸を出ると、チグリス川に沿って対岸へ移動し、バグダードの敬慕者が彼のために提供した、緑豊かなナジービーイェ庭園に足を踏み入れた。そこで、家族の者たちと、同行を許された少数の近しい追随者とともに12日間滞在した。バハオラは庭園に到着した当日、自身がバブにより到来を約束された「神が顕し給う御方」であることを彼らに告げ[49]、神がこの世に新たに遣わした顕示者としての自らの使命が始まったことを宣言した[43][50]。バブが到来を約束した顕示者であり、新たな宗教制の創設者であることをバハオラが宣言したこの12日間は、現在、世界中のバハイによって毎年祝われ、「祭の王」レズワンと呼ばれている[32]。

バハオラは1863年5月3日にレズワンの園を離れ、オスマン帝国政府の賓客としてコンスタンティノープルへ家族とともに移った。護衛のためにスルタンの首相メフメト・エミン・アーリ・パシャが手配した騎馬隊が彼らに同行した[51]。随行をバハオラに願い出た少なくとも20人の仲間たちも、道中を進む一行の中に含まれていた。スルタンからの招待をミルザ・ヤーヤは受けていなかったが、彼も一行に加わった[52]。15週間後の1863年8月16日、バハオラと随行者たちはオスマン帝国の首都、コンスタンティノープルに到着し、スルタン政府の各大臣や著名人から手厚く迎えられた。その翌日には、ペルシアの大使も使節を派遣して彼らを歓迎した[53]。

バハオラはイスタンブールに3か月間滞在した。この期間、イスタンブールを訪れる招待客が行う慣例には従わず、政府の大臣に援助を求めたり、スルタンに拝謁することはなかった。ある政府高官からその点を示唆されると、自らはオスマン帝国政府からの招聘を受けてイスタンブールに来たのであり、何かを要求する意図も、何らかの計画を推進する考えもないと返答した。しかし、バハオラの何にも依存しない姿勢と、好待遇への執着の無さは、ペルシア大使によって悪意をもって歪められ、オスマン帝国の宮廷において[54]、彼を首都から追放するように働きかける口実にされた[55]。その結果、到着して4ヶ月を経ぬうちに、州都エディルネ(現在はトルコのヨーロッパ側(東トラキア)に位置する)への追放が提案され、スルタンは即座にこれを承認した。バハオラは、自分はオスマン帝国政府に招かれた客としてイスタンブールに来たのであり、何らの不正も犯していないと述べた[40]。

アドリアノープルへの追放

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1863年12月12日、バハオラは家族や他の同行者とともにアドリアノープルに到着した。そこに滞在した4年半の期間は、自らの使命をバーブ教徒の間で受容・浸透させ、また自らの大業を広めるうえで重要な時期となった[56]。続く2年間、バハオラの著作はイランのバーブ教徒にも広く伝えられた。バハオラが信頼する数名の従者をイランに派遣したことで、バーブ教徒の多くは彼を自分たちの信仰を導く者として認め始めるようになった[57][58]。

バーブ教徒への迫害が鎮静化していることで強気となったミルザ・ヤーヤは、公衆の前に姿を表し始めていた。バハオラへの嫉妬に駆られたヤーヤは、バハオラを茶に招き、自ら毒を盛った[52]。その結果、バハオラは1か月に及ぶ重い病に苦しみ、生涯にわたり、手の震えが残った[59][60] 。バハオラは事情を知る者たちに口外しないよう勧告したが、事態は周知され、バーブ教徒の間に強い動揺が走った。しかし、ヤーヤは次の策も練っていた。そして、またしても、バハオラの命を狙ったことで、「前例のない騒擾」を共同体にもたらしたのである[61]。この策は、バハオラの入浴係を従来から務めていた理髪師ウスタード・ムハンマド・アリー・サルマーニーを巻き込むものだった[52]。サルマーニーの報告によれば、突如として自分に親切に振る舞うようになったヤーヤから、入浴の世話をしている最中にバハオラを殺せば、自分たちの宗教への「大きな奉仕」になるだろう、とある日、強く迫られたという。サルマーニーは激昂し、逆にヤーヤの殺害に即座に駆られたと加えた。それでも思いとどまったのは、バハオラを怒らせることを承知していたからにすぎない。動揺したまま、バハオラに忠実な兄弟ミルザー・ムーサーに事の次第を知らせたものの、ムーサーは、ヤーヤは何年も前から殺害を企てていたのだと言い、気に留めないよう助言した[62]。この言葉になおも心を乱されたサルマーニーは、アブドル・バハ(バハオラの長男)にも事態を知らせたが、他言しないよう勧告された。サルマーニーは最終的にバハオラ本人にも報告したが、やはり、誰にも言わないようにと諭された。この事件までは、バーブ教徒の大半がヤーヤに敬意を示していた。指導者というその主張を受け入れられなくても、ヤーヤはバハオラが常に慈しみ配慮してきた腹違いの弟であったからである。しかし、サルマーニーが沈黙を保てず、ヤーヤから依頼された内容を包み隠さずに皆に伝えたことで[63]、バーブの教えに反するヤーヤの諸々の行為と意図に、バーブ教徒は大きく動揺した[64]。

アッカへの最後の追放

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バハオラの追放の地図

ミルザ・ヤーヤは、バハイとなったバーブ教徒の間で尊敬も影響力も失ったものの、なおも画策を巡らしていた。今度は、オスマン帝国当局に対し、バハオラがオスマン政府に対抗せんとして扇動を行っていると讒言をし、彼の信用をまたしても貶めようとしたのである[65][66]。ヤーヤの所業に対し、政府が調査に乗り出した。調査により、バハオラの嫌疑は晴れたが、宗教上の問題で混乱が今後も起きることを恐れたオスマン政府は、バハオラとミルザ・ヤーヤの双方を帝国内の僻遠の地で拘禁することを決定した[67][65]。1868年7月、バハオラとその家族は、勅令により、疫病の蔓延する流刑地アッカに永久拘禁とされた。アドリアノープルにいたバハイの大半も彼らとともに追放された[68]。ミルザ・ヤーヤ自身も、策謀の果てに投獄された。オスマン当局はヤーヤの陰謀関与を疑い、家族、アザーリー派の数名の信徒、そして4人のバハイもろともにファマグスタ(キプロス)の刑務所に投獄した[69][70][71]。

バハオラが拘禁されたアッカの監獄

1868年8月12日にアドリアノープルを出発したバハオラと随行者たちは、8月31日にvに到着し、市内の兵営に拘禁された[65]。アッコの住民には、彼ら新たな囚人は帝国と神、そしてイスラム教の敵であると通達され、一切の交流が厳禁された。アッカでの当初の数年間は苛酷を極めた。多くのバハイが病に倒れ、最終的に3人が死亡した[65]。1870年6月、バハオラの22歳の息子ミールザー・ミフディーが、祈りと黙想に深く没入していた最中に、監獄の屋上に開けられた覆いのない天窓から転落して亡くなるという悲劇が起きた[72][73]。それでも、しばらくすると、囚人のバハイたちと獄吏、地域社会との関係は改善し、拘禁条件も緩和された。1871年4月にアッカを訪れたトマス・チャップリン医師(エルサレムのイギリス病院の院長)は、兵営を出た後のバハオラ一家の住まいで、アブドル・バハと会見した。彼が後に、バハオラに関する手紙をタイムズ紙の編集長に送ると、1871年10月5日に記事として掲載された[74]。スルタンの死後、バハオラは市外への外出や近隣地の訪問を許され、やがてはアッカの外で暮らすことも認められた。1873年には二つの重要な出来事が起きた。第一が、バハオラが最も重要な著作『ケタベ・アグダス(最も聖なる書)』を完成させたことである。書には新たな宗教の法のみならず、道徳的・社会的教えや行政に関する事項も含まれている。第二が、アブドル・バハがイスファハーンの名門バハイの家系を出自とするムニリフ・ハーヌムと結婚したことであった。1876年、アブドル・バハがバハオラが市域外への外出が認められるよう手配したことで、手始めに、借り受けた庭園(レズワンの園)を訪れることができた[32][40]。1877年から1879年にかけて、バハオラは監獄都市アッカの北数マイルに所在するマズラエの邸宅に居住した[75] 。バハオラは、名目上は依然としてオスマン帝国の囚人であったが、晩年(1879年–1892年)をアッカに隣接するバージの邸宅で過ごし、和合した世界のビジョン、倫理的行為の必要性を含んだ自らの教えを詳述した多数の著作や、多くの祈りの執筆に専念した。

バハオラの霊廟

1890年、ケンブリッジ大学の東洋学者エドワード・グランヴィル・ブラウンはバージでバハオラに面会することができた。この面会の後に、バハオラの姿を描写した有名な文章を書き残している。

バージの館

部屋の隅の壁際に設置されているあの長椅子に、神々しいまでの高貴さを湛えた人物が座っていた。……私が見つめたその御顔は、表現することはできないが決して忘れられないものであった。その突き通すような眼差しは、人の魂そのものを見透かすようで、その豊かな眉は力と権威に満ちていた。……私の面前にいる人が誰かと聞くまでもない。私が深く頭を下げるこの人物こそ、王達もうらやみ、皇帝達もため息をつくほどの熱愛を一身に集める御方であった。優しいが威厳のある声が私に座るよう招き、それからこう続けられた。「汝の到達に対して、神に賛美あれ! ……汝は囚⼈であり、流刑者たる者に会いに来た。……我はただ、世界の利益と、国々の幸福を願うのみである。にもかかわらず、彼らは我を、争いと反乱の扇動者と⾒做し、その罪は禁固追放に値するとした。……すべての国々が信仰において⼀体となり、すべての⼈々が同胞として⼀体となること、⼈の⼦らの間に親愛と和合の絆が強められること、宗教の相違が無くなり、⼈種の差別が消し去られること、これらのどこに害があるのか。……それでも、それは必ず実現されるであろう。これら無益な闘争、これら破壊的な戦争は無くなり、やがて最⼤平和が来る。……これはキリストが予⽰したことではないのか。……しかるに汝らの王や統治者らは⼈類の幸福につながるもののためよりも、⼈類の破壊の⼿段に惜し気もなくその財宝を浪費しているではないか。……これらの闘争や流⾎や不和はやめなければならず、全⼈類が⼀つの親族、⼀つの家族とならねばならない。……誇りは⾃国を愛する者にあるのではなく、⼈類同胞を愛する者にあるのである。」[76]