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アパラチン会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アパレイキン会議(-かいぎ、Apalachin meeting)は、1957年11月14日にニューヨーク州アパレイキンのジョゼフ・バーバラの邸宅にて行われたアメリカのマフィア(コーサ・ノストラ)のボス達による歴史的なサミット会議[1][2][3][4][5][6][7][8]。

後に伝えられたところによれば、前月に暗殺されたアルバート・アナスタシアの違法ビジネスの利権分配のほか、高利貸しや麻薬取引、賭博など様々な内容が話し合われる予定であった[9][10]。アメリカ国内以外にもイタリアやキューバからの出席者もおり、推定100人のボスや幹部が列席したと考えられている[10]。この会議はヴィト・ジェノヴェーゼがコーサ・ノストラらの頂点(カポ・デイ・カピ、=ボスの中のボス)に立つことが企図されていた。

地元や州の司法機関は「退屈な小村アパレイキン」と表現されていた場所に、全国からのナンバープレートをつけた多数の高級車が停車していることに疑いを持った[11]。バリケードを設置した後、警察は会議の強制捜査に入り、参加者の多くはバーバラの邸宅を囲む森を突破して逃亡した[12]。この強制捜査によって60人以上の犯罪組織の長が勾留され、起訴された。出席者の内20人は、「会議内容について虚偽の説明をした司法妨害」の罪で告発され、1959年1月に有罪判決が下り、全員に最高10,000ドルの罰金と3年から5年の懲役が宣告された。しかし、翌年の控訴審によって判決はすべて覆された。アパレイキン会議が社会に与えたもっと大きな影響は、コーサ・ノストラという全国規模の犯罪シンジケートの存在を世に知らしめたことであった。こうした犯罪組織の存在は連邦捜査局 (FBI)初代局長ジョン・エドガー・フーヴァーが長年否定していたものであった[10][13][14]。

会議開催の背景

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ラッキー・ルチアーノ(1948年)

第2次世界大戦以前、アメリカの暗黒街ではラッキー・ルチアーノが頂点(capo dei capi、ボスの中のボス)に立ち、彼の呼びかけにより、ニューヨーク五大ファミリーやコミッション(全国委員会)、またイタリア系に依らないアメリカ各都市のギャング勢力と連携しての犯罪組織の全米ネットワークが構築されていった。しかし、1936年6月18日にルチアーノは30年から50年の州刑務所への服役を宣告された[15][16]。大戦後の1946年1月3日、トマス・E・デューイは戦時協力の見返りとして、イタリアへの強制送還を条件としてルチアーノに恩赦を出した[17]。2月10日、ルチアーノが乗った船はブルックリン港からイタリアに向けて出港した(以降ルチアーノが再びアメリカに戻れる日はこなかった)。船は2月28日にナポリに到着し、ルチアーノは記者団に対しておそらくシチリアに住むことになると語った[18][19]。

「暗黒街の首相」と呼ばれたフランク・コステロ

1936年にルチアーノが服役してから、ルチアーノ・ファミリーは副ボス(アンダーボス)のヴィト・ジェノヴェーゼが代理のボスとなったが、まもなく1934年のフェルディナンド・ボッチア殺害の一件でジェノヴェーゼも当局の手配を受け、イタリアに逃亡せざるを得なくなってしまった[20]。このため、当局の捜査網から漏れていたフランク・コステロが代理ボスに昇格した。ファミリーの実権はルチアーノが握り刑務所内から指示を出していたが、コステロ個人も政界や司法界など多岐にわたる人脈を持ち、連邦捜査局 (FBI)初代局長ジョン・エドガー・フーヴァーとも古くから交流があった。その人脈を他のマフィアから頼られることもあり、コステロは「暗黒街の首相(The Prime Minister of the Underworld)」と呼ばれるに至った[21]。デューイのルチアーノに対する恩赦にも関わっており、1946年のルチアーノの国外追放後は、コステロが正式にファミリーのボスとなり、「ボスの中のボス(capo dei capi)」となった。

逃亡の身であったジェノヴェーゼは大戦中にアメリカに連行され、1945年6月2日に改めてボッチア殺害の件で起訴された。しかし、有力な検察証人が殺害されたことで証拠不十分となり、1946年に釈放された[22][23]。コステロはジェノヴェーゼの復帰を迎え入れ、いくらかの金銭や地位の補償を行ったが、ボスの座はおろか、副ボスの地位も与えなかった。ここからコステロとジェノヴェーゼの確執が始まるが、当初、ジェノヴェーゼはコステロの命令に従っていた。

1950年代からコステロとジェノヴェーゼの権力闘争は激しくなり、1951年、自前の戦力に乏しいコステロは掟に反するボス殺しが疑われていた盟友のアルバート・アナスタシアのマンガーノ・ファミリーのボス就任を積極的に後援し、ジェノヴェーゼを牽制した[24][25]。一方で、同年にコステロの右腕で副ボスであったウィリー・モレッティが暗殺され、その後任としてジェノヴェーゼが副ボスに復帰した[26]。また、ジェノヴェーゼはボスとなったばかりのルッケーゼ・ファミリーのトーマス・ルッケーゼと手を組んだ。1956年には組織重鎮で2人の緩衝役であったジョー・アドニスが国外追放され、他の古参幹部も一線を退くなど、2人の争いを止められる者がいなくなっていた。

ヴィト・ジェノヴェーゼ(1958年)

1957年5月2日、ジェノヴェーゼはついに行動を起こし、配下のヴィンセント・ジガンテに命じてコステロを襲撃させた[27] 。暗殺は失敗し、コステロは軽傷を負っただけで済んだが引退を決意させた。ジェノヴェーゼの残る懸念はアナスタシアであり、実際、アナスタシアはジェノヴェーゼのボス殺し未遂を批判し、コミッションなどにおいてジェノヴェーゼのボス就任防止に奔走した[28]。しかし、6月17日にマンガーノ・ファミリーの副ボス・フランク・スカリーチェが暗殺され、アナスタシアに不満を持つカルロ・ガンビーノが副ボスに昇格した。そして10月25日、アナスタシアは理髪店にいたところをヒットマンに襲われ、銃撃により即死した。この暗殺実行犯は捕まっていないが、事件の首謀者はジェノヴェーゼとガンビーノとされている[29]。

アナスタシア暗殺直後にコステロは正式に引退を表明し、ファミリーの実権の一切をジェノベーゼに譲ることを言明した。由緒あるルチアーノ・ファミリーを支配したジェノベーゼは、自らの地位を確実なものとさせるため、全国のコーサ・ノストラを集めたコミッションを開催することを企図した。当初、会合はシカゴで開かれる予定であったが、シカゴマフィアの有力者であるシカゴ・アウトフィットのボス、サム・ジアンカーナが反対したため、ニューヨーク州バッファローのボスで、コミッション・メンバーでもあるステファノ・マガディーノに候補地選択が依頼された。マガディーノは、ペンシルベニア北東部ファミリー(後のブファリーノ・ファミリー)のボスであるジョゼフ・バーバラと、その副ボスであるラッセル・ブファリーノに会議の監督・指揮を依頼した[30][25]。

アパレイキン会議

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1957年11月14日、マフィアのボスや顧問(コンシエーレ)、また護衛で構成される全部で約100人の男たちがニューヨーク州アパレイキンにある53エーカーのバーバラの所有地に集まった。アパレイキンはニューヨーク市の北西約200マイルにあるペンシルベニア州境近くのサスケハナ川の南岸に位置する町である。この会議の主要な議題は、賭博や麻薬に関するコーサ・ノストラの方針決めと、先月に暗殺されたアナスタシアの違法ビジネスの利権分配であった[9][10]。アナスタシアとスカリーチェの暗殺は、彼らの体制に忠実であったアナスタシア・ファミリーのメンバーを考えれば対策が急務であった。ファミリーの幹部(カポ・レジーム)であるアニエロ・デラクローチェやアルマンド・"トミー"・ラヴァは、ジェノベーゼや彼の同盟者と抗争を起こそうとしていた。

国内でも特に強力なコーサ・ノストラのボス達である、フロリダのサント・トラフィカンテ・ジュニア、ペンシルベニア北東部ファミリーの副ボスであるラッセル・ブファリーノ、ロサンゼルスのフランク・デシモーネ、カルロス・マルセロ及びマイヤー・ランスキーらは、コミッションがアナスタシア暗殺を公認するよりも前から彼のハバナ(キューバ)における賭博利権について懸念していた。キューバ利権は主要な議題の1つであり、特に同地における賭博や麻薬から得られたコーサ・ノストラの収益の密輸についてであった。国際的な麻薬取引も重要なトピックであった[31]。アパレイキン会議の少し前には、ボスのジョゼフ・ボナンノ以下、ボナンノ・ファミリーの構成員であるカーマイン・ギャランテ、フランク・ガロファロ、ジョバンニ・ボンヴェントレたちと、デトロイト、バッファロー、モントリオールといった地域のコーサ・ノストラの代表がイタリア・シチリア島の